函館在住、渡満、終戦、引き揚げなど目まぐるしい人生体験の中で、常に心の灯火として短歌に親しんだ佐藤豊吉は、明治43(1910)年、飽海郡本楯村越橋(こえばし・現酒田市)に誕生している。
長じて大正末年、鉄道員を志望して東京の岩倉鉄道学校に入ったが、病気のため中退した。
やがて病も癒えた後、北海道に渡って昭和4年函館新聞社に入社、同11年には北海タイムス函館支社に勤務、ここで短歌との出合いが始まっている。このことを歌集『掛時計』の中で次のように記している。
「市内の書店で歌誌『ひとみ』を発見、これに短歌を投稿し、主宰者・村田掬水を知ったのが私の作歌の道に入った第一歩であった」
函館では岬短歌会を創立して作歌に励み、当時改造社が刊行した『新万葉集』にも入選、掲載されている。
子が住めば北のはたての大海の涛をわたりて父は来ませり
昭和14年、大陸に夢を抱き満州に渡り、飛行場建設と維持の仕事に携わったという。歌の道はこうした異国の地にあっても情熱を燃やし、『短歌人』会員となって満州から内地に短歌を投稿して歌の向上に努めている。
終戦により引き揚げ、郷里に帰り本楯村役場に就職した。その後は公務員としての傍ら、同好者とともに同24年1月、本楯短歌会を結成して、会の育成と指導に当たっている。
温厚な人柄で、家族を愛し、友人と交わり、短歌を自己の生きがいとした。作品は彼の尊い人生航路そのものであったといわれている。
その後、本楯短歌会は順調な歩みを続け、第一集として合同歌集『炎』、同第二集『断層』、続いて佐藤豊吉の『掛時計』が第三集として発刊されている。著者のあとがきに触れてみると、「私の結婚を函館新聞社の同僚達が心から祝って贈られた掛時計が、今も茶の間の柱に掛けられ私の人生の時を正確に刻み続けている。妻も我もこよなく愛づる掛時計結婚後二十七年の時刻み来し」と、短歌を交え書いている。短歌には全く素人の私だが、この作品からは家庭の温かさが深く感じられてくる。
時移り、本楯役場から町村合併で酒田市役所に勤務、昭和40年退職、同51年、生涯を短歌一筋にかけ、多くの人に惜しまれて亡くなっている。
歌人。明治43年3月、飽海郡本楯村越橋生まれ。昭和11年、北海タイムス函館支社勤務時に短歌と出合う。函館では岬短歌会を創立。渡満後は『短歌人』創刊で会員に。そして、終戦後は郷里に帰り、同24年1月、本楯短歌会を結成。育成と指導に当たった。人柄は温厚で、作品は彼の人生航路そのものであったといわれている。『掛時計』発刊。昭和51年に亡くなった。