昭和初めの1930年代、金融恐慌後の中で庄内の産業組合運動がようやく台頭してくる。そして昭和6年に満州事変が勃発、同12年に日中戦争が始まった。そのころ、自分の育成したイネの品種の食味試験を東京・深川の米穀商に依頼した人がいた。中平田の地主で飽海郡農会長も務めた堀隼雄である。
当時は、食糧確保に小麦増殖計画が5カ年計画で始められ、公定米価制、米穀自治管理法が機能し始める直前の、質より量が望まれていた時代である。試験に供されたのは、堀が大正13(1924)年に、旧イ号と酒田早生を交配して育成した「羽後の華」1俵。試験を行ったのは昭和6年2月、深川正米市場。東京の廻米問屋、白米商、正米問屋連合という、米に関するプロの3連合の120人であった。
昭和8年に発行された『東京廻米問屋組合深川正市場五十年史』の中に、この試験結果の詳細が、東京深川・山崎繁次郎商店川村寅之助の名前で報告されている。川村は当時、合資会社同商店の代表者で、同組合の参事をしていたから、米の取引や品質保証などを通して庄内とは行き来があった。一方、堀は飽海郡農会長なども務めたから、両者は接触する機会があったことが分かる。
試験結果は、「東京好みの滋味あり申し分なく、他の品種と混米でも“いける”。また、粒の大きさも適当で色艶よく、見るからにおいしそうだ」など、かなり高い評価をしている。しかし、「羽後の華」は育成後わずか数年しか経っていないのになぜ、食味試験を急いだのか。おそらく「羽後の華」は堀の自信作だったのであろう。
交配に使った親をみると、「旧イ号」が、東郷村(現・三川町)の佐藤弥太右衛門が育成したイ号の系統だとして、ともに多収穫品種であった。イ号は、大正14年には県内で1万9000ヘクタールという最大の栽培面積となり、酒田早生は、昭和6年に約1万ヘクタールにわって作付けされており、その交配ということと、肥沃な酒田・飽海地方の土壌でかなりの増収が得られたからであろう。昭和5年3月、藤島町の県農試庄内分場で開かれた、第7回品種改良懇談会で、肥料の値段からの経済性試験で最も高い経済性が報告されているからである。
期待の新品種であったろう。しかし、実際の作付は最大でも100ヘクタールにも普及しなかった。堀はこのほかに、玉の井と酒田早生の交配から「平田錦」を育成している。「亀の尾」の阿部亀治、「イ号」の佐藤、「福坊主」の工藤吉郎兵衛を頂点とする、庄内の民間育種家の“裾野”の広さを示す1人である。
堀隼雄の先人・先覚者あとされる理由は、庄内ではおそらく初めて「食味」に着目。大消費地の東京で、しかも米のプロ集団に食味試験を依頼したことにある。今日の米事情を予期していたかのように。
明治18年8月31日、平田村(現・酒田市熊手島字手興屋周辺)に、地主・堀熊太郎の長男として生まれる。昭和初期、自分の育成した稲の品種「羽後の華」を、東京・深川の米穀商を通して食味試験を依頼した。食味試験に供された庄内の品種では、おそらく初めて。堀家は天正年間、十五里ケ原古戦場(現・鶴岡市郊外)で繰り広げられた最上勢と庄内勢の戦いで戦死を遂げた筑前守の弟右馬頭の子孫。隼雄は昭和17年4月16日、58歳で死去した。