加藤安興は、月山山麓に広がる川代山(旧・川代村、現・鶴岡市羽黒町周辺)に大牧農場の開設を計画し、その実現に務めたものの、志半ばにして倒れた。
押切新田村の豪農、加藤安興は、村々の入会採草地であった川代山1320町歩の地を農場と牧場にすることを計画し、その趣意書を県令・三島通庸に提出したのは明治13年9月である。この事業が成功したあかつきには国の恩に報いることになり、また、多くの人のためになるとしている。
851町歩の払い下げが許可された。しかし、この地一帯が入会地であったことから紛争が起こるのを恐れて、名義上は県営事業とし、安興を監守とした。名は県営事業であっても補助金は出ず、全て安興の負担となった。
払い下げが許可されるとすぐに、洋牛を東京や横浜から、洋式農機具類は東京育種場から買い求めた。技師も同所から呼び、育牛管理人は東京から雇い入れた。その際、アメリカからプラオ式開墾機も導入している。
明治14年6月、牧場にアシヤ種の牛が放牧された。技術取得のための牧夫4人が、東京の勧業局種畜場に派遣された。さらに経営の拡大を図るため、前に中台伝に払い下げとなっていた468町歩を4500円で買収したのは明治15年7月である。
開かれた放牧場の面積は400町歩余、飼育数は120~130頭に及んだといわれている。一方、募集した開墾者によって明治14年、6町歩余の荒蕪地が開拓され、杉苗5000本、桑苗500本、リンゴ苗20本が植え付けられ、開墾者の家屋なども建設され、一つの集落が生まれた。この開発で安興が負担した費用は膨大なものであった。
川代山の開発が始まって間もない明治16年1月、安興は病没した。その遺業は妻のよしと長男の正喬に継がれた。
正喬らは鶴岡や酒田に牛乳販売所を設けたり、コンデンスミルクなどの製造も行った。事業達成のために牧農夫と給料などで協定も結んだ。開墾は明治36年完了した。必死に努力したが、経営は不振であった。一家は川代山に移住したが、家財の全てを失い、正喬没後この地を去った。
しかし、移住者たちによって安興・よし・正喬の事業は継続され、成功した。明治43年加藤父子の功を称える碑が建立された。
農業。弘化2年、平田郷漆曽根組の大庄屋岡本家の出身。押切新田村の加藤与一左衛門家の娘・よしの婿となる。明治14年、明治天皇東北巡幸の際、加藤家で休息、加藤家が自費で玉座や休息所を新築。川代山開発で倒産した。明治16年1月13日に39歳で死去した。