警察官として職務に精励する傍ら、昆虫の研究に生涯をかけ学術に貢献した白畑孝太郎は、大正3(1914)年2月、山形県南村山郡宮生村(現・上山市)に生まれた。小学生のころから自然科学が好きで、特に昆虫に興味を持ち、暇さえあれば蔵王に登って昆虫を追い、晴れた日には、浮かぶように残雪に輝く鳥海山の姿に見とれ、このような壮麗な高山には、どんな珍しい虫がいることだろうと想像し胸を高鳴らせていたという。
昭和10(1935)年3月、山形県巡査を拝命、同年7月には酒田署勤務を命ぜられ、鳥海山を望める念願の庄内に住むことになった。
同14年から16年まで中国山西省に出征中も、同20年から21年同国湖南省を、丸4カ月行軍を続けた時も、趣味の会のメンバーと連絡を取りながら昆虫採集を続けた。中でも山西省時代採集した中には貴重なものが多く、世界でも珍しい標本があるという。
県内で採集した昆虫には、専門のトンボが全部そろっており、チョウチョウ、バッタ、キリギリス類もほとんど全部、その他の昆虫も8、9割はそろっていると言われ、まさに完全に近い標本であると言われている。
そのほか国内は北から南まで、外国ではヒマラヤ・アムール・アメリカ・ケニアなど16カ国に及ぶ膨大な標本の数と聞いている。
学会では日本昆虫学会会員・日本動物学会会員・山形県鱗翅学会会員・山形昆虫同好会名誉会長など多くの会に名を連ねて、学術向上に尽くした人である。
そのほか図書館主催の現地博物講習会や、夏休み中に採集した児童の「昆虫の名前を調べる会」」などにも出席して、懇切丁寧に指導してその成果を挙げている。
昭和38年11月3日、郷土の昆虫を研究し、本県の文化向上に寄与した功績に対し、茂吉文化賞が授与されている。
著書に『庄内の昆虫』(みちのく豆本の会発行)がある。その中のあとがきに次のように記している。
「…前略…私たちの周囲からセミやトンボやホタルが消え去ったとて、いかほど日常生活に支障があるのかという人もあろうが、生あるものを等しく私はいつくしむ。そうしてこの一文を滅び去るものえの惜別の賦としたい…後略…」
昆虫にかけた彼の心の叫びであろう。警官としても講道館6段の腕であった。昭和55年5月、享年65歳で亡くなっている。
大正3年2月、南村山郡宮生村生まれ。小学生のころから昆虫に興味を持ち、暇を見ては蔵王に登った。警察官拝命後も採集を続け、中国山西省時代のものには貴重なものが多く、世界でも珍しい標本がある。また、県内で採集したものは、トンボなど完全に近い標本であるといわれている。昭和38年11月、茂吉文化賞受賞。著書に『庄内の昆虫』がある。昭和55年5月、65歳で死去した。