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郷土の先人・先覚293 失明 苦難の中でなおも詩作に励む

加藤千晴(明治37-昭和26)

「ころもをたたむ」
このなつのころもをかへんと わがたたむこのふるごろも このころもふりたるみれば
わがははもいたくおいけん このころもたたみてみれば ゆくりなくわれはきくなり いくとせのこがらしのおと いくとせのあめのしたたり いつしかにしげれるあをば わがまどのなつもきぬれど ころもかへつまともわかれ わがよはいよそじもちかし おぼつかなわがたゆき手の いまはとてなにをたたむや おほかたのふりしおもひは つかれたるこころにおもく(反歌略)

加藤千晴は大正14年、青山学院を卒業すると、京都に住む兄の加藤丈策氏のもとに転がり込み、職にも就かず、在学中から詩作に明け暮れた。

その後、荘内中学校から京都の第三高等学校に移った滝浦文弥教授の世話で、昭和初期三高事務局に勤めることができた。事務局書記時代に、『四季』『西日本』『詩風土』などに詩を発表した。昭和17年には第1詩集『宣告』を刊行している。

目が悪くなった敗戦直前酒田に帰り、父の家に寄食した。苦しい生活の中でも詩作に励み、昭和21年第2詩集の『観音』を京都の白井書房から出版している。その序文に、詩人の丸山薫は「片すみにおき忘れた瓶の、よそ目にはひっそりとしながらも、沸々として中にみごとな発酵をとげているとしたら、かかるものこそ加藤千晴君の詩であろう」と述べている。

昭和22年、失明という非運の中で、雨がちな北のくにに 僕はかへってきた 窓をしめて 僕はひねもす雨をきいた こころをとざして 僕はひねもす孤獨にたへた(以下略)。

詩人・真壁仁は、「人生の遍歴を終わった旅人のような静かな表情をたたえている作品が多い。虚構と粉飾をまったく捨てた文学の風韻ということでは良寛などの系譜をかんじさせるし、その表現の厳しさでは芭蕉にも学んだようにおもわれる」と評した。

千晴は自分の二百余編の詩を『花と遠景』『花嫁と襤褸』『浪漫詩集』『石の枕』『みちのく』の5冊にまとめた。千晴没後の昭和27年に丈策氏が『みちのく抄』、のち、孫の千晶氏が『厭離庵そのほか』の遺稿集を出している。

(前略)土はふるさとだ 人間はそこで素はだかになる そして土くれにかへるのだ 僕は土に帰りたい

(筆者・須藤良弘 氏/1993年6月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

加藤千晴(かとう・ちはる)

詩人。本名・平治。明治37年9月加藤磯太・とみ江の三男として酒田町利右衛門小路に生まれる。兄の丈策氏、弟とともに秀才三兄弟といわれた。琢成尋常高等小学校、鶴岡中学校、青山学院英文科を卒業。身体が弱く、晩年は失明し、苦難の道を歩んだ。失明後は口述した詩を、丈策氏や一人娘の千草氏が筆記した。真壁仁氏は千晴の不幸、悲運について、「彼はあまりに純粋なところがあった。彼はうらぎられた(後略)」と述べている。昭和26年4月24日死去した。

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