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郷土の先人・先覚295 地方産業発展の基礎を築く

荒木幸吉(明治5-昭和34)

昭和17年山形県食糧営団の設立で米商は消滅するが、「百姓時代十年間に水田より乾田耕作法から総てが一新する時の年数を合わせて五十年」以上も米界で活躍してきたのが荒木幸吉である。(『米の生活五十年』)

荒木幸吉の生家は、西荒瀬村(現・酒田市)で自作地3町5反、小作地1町歩を耕作する大きな農家であった。15歳から農業に従事し、19歳には鍬頭として奉公人の先頭に立って働いている。その一方、稲作改良に情熱を燃やし、乾田馬耕では伊佐治八郎の第1回聴講生でもあった。

独学による農業の研究が深まるにつれ、青年農事家として名が広まり、近郷近村より教えを請う青年が十数人も集まるようになった。昼は農事に従い、夜は11時ごろまで講義をやり、声がかれると黒豆の煎じ汁を飲んで続けたという。

明治28年酒田町の豪商・荒木彦助から見込まれ、養子に入り、米穀商となった。庄内米の品質改良を志し、酒田米穀取引所員として関東地方など各地に出掛け、調査研究を続けた。米の品質を向上させるだけでなく、コメの移出の便を図るために、表俵の改良に努めたことなどで、庄内米の声価を高めた。

山形県の産米改良については、熊本県を視察した結果、同業組合による検査よりも県検査を可と考え、標準米も内陸と庄内の二本立てにする意見書を県知事に提出し、明治43年から実施に移された。昭和2年酒田で開催された日本米穀大会も、主催庄内米総会の会長としてその手腕をふるい大会を成功させた。

酒田米穀取引所取引委員長、大日本米穀会取引委員、日本商工会議所米穀対策委員、荘内米穀商業組合理事長、山形県米穀商業組合連合会理事長などに就任、その発展に力を尽くした。

港湾や運輸についても、若い時から強い関心を示し、その発展に努力している。明治35年酒田河口同盟会が結成されるや幹事長に、大正9年には酒田築港同盟会の副会長となり、酒田港築港と発展に努めた。

明治40年商工業の発展を目的に、酒田商工談話会を結成し、鉄道誘致運動を起こした。運動を有利にするためには、反対の立場にあった政友会にもあえて入党している。郡会議員、町会・市会議員、学務委員、商工会議所会頭、酒田市史編纂委員など多くの役職につき、この地の産業・経済の発展に大きな功績を残した。藍綬褒章などの章を受ける。

(筆者・荘司芳雄 氏/1993年7月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

荒木幸吉(あらき・こうきち)

米穀商。明治5年9月15日西荒瀬村下藤塚渡部善兵衛の四男として生まれる。荒木彦助の長女富江と結婚、5男5女に恵まれる。三女の荒木梅江さんらの話によると、真面目一方、仕事一本、学問・教育に熱心であった。信仰心に厚く1日、15日は必ず日枝神社などを参詣。船場町の屋敷で畑作をし、収穫した馬鈴薯にはライスカレーの材料などと書いて娘たちに配って歩いた。昔話をよく聞かせたという。昭和34年1月3日死去した。

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