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郷土の先人・先覚297 医学通し人に尽くし地方俳壇に名を成す

吉田木底(明治39-昭和59)

医院を経営する傍ら俳句に親しみ文化人としても著名な吉田木底(本名・金蔵)は、明治39(1906)年2月、東京の本郷で生まれており、木底は俳句のペンネームである。

千葉医科大学出身で、昭和8(1933)年には軍医に任ぜられ少尉に任官した。やがて満州の広野に戦争が起こり応召、その後戦争の拡大とともに北支の戦場へと転戦して戦争の悲惨さを身を持って体験したという。あとは除隊・応召を繰り返して、昭和20年無事復員して郷里に帰った。

その後、市内本町一丁目に医院を開業した。その傍ら医師会理事、学校の校医、福祉関係の嘱託医、PTA会長など多くの役職を務め、人のために尽くしている。

特に浜田小学校PTA会長の時は、副会長に当時の国鉄診療所長鈴木計男、校長伊東善三の息の合ったコンビで、PTAを充実させた学区内の功労者である。

人は職を得て汗をする傍ら趣味を持ち、情緒を豊かにすることも必要である。木底はこうした生き方を俳句に求め、医学と趣味を生活の中に活かした人である。

秋元不死男を師とし、『天狼』『氷海』に投句、秋沢猛の『氷壁』同人として吟社の発展に意を尽くして地方俳壇にも名を成している。

我行くべき患家の灯冬田のはてに

これは昭和27年2月17日の出羽新報に載った句で、当時医師仲間の俳句同好会「如月会」の句会を一郎宅(一郎は石原孝吉のペンネーム)で行った時の作句で、患者によせる思いやりが「患者の灯」の中に詠まれている。また「如月会」でも木底は宗匠格であったという。

『氷壁』同人としての作句も素晴らしい句がある。

医師の汗と患者の汗と合しけり

この句は医師と患者の触れ合いを汗で表現した医師ならではの句である。次も『氷壁』の中の句である。

 汗の玉一つ一つが物を云う
 菊人形抜かれし太刀に菊映る
 田圃戦場戦車の如く農耕車

秋沢猛句集『寒雀』に「寒雀の羽根賑やかに亡妻忌」の句があるが、木底は書評で「この句を見て胸が一杯になり何も書けない。(中略)こまやかな人情がにじみでた句だ」と記している。謹厳な中に温情のある人物という。昭和59年、享年79歳で亡くなった。

(筆者・荘司芳雄 氏/1993年9月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

吉田木底(よしだ・ぼくてい)

明治39年2月生まれ。本名は金蔵で、木底は俳句のペンネーム。千葉医科大出身で、昭和8年、軍医となり少尉として任官した。昭和20年復員。その後、酒田市本町一丁目に医院を開業、医師会理事、学校の校医、福祉関係嘱託医、PTA会長など多くの役職を務めた。同時に情緒を豊かにすることも必要と、俳句に親しんだ。秋元不死男を師とし、秋沢猛の『氷壁』同人として吟社の発展に尽くし、地方俳壇に名を成した。謹厳な中に温情のある人柄だったという。昭和59年死去。

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