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郷土の先人・先覚301 医会所「十全堂」を創設 天保大飢饉で飢民救う

佐藤蒿庵(寛政3-慶応2)

佐藤家十一世の医師・順庵に、長男・道悦、二男・蒿庵の2人がいる。長男は同家十二世を継ぎ名医と言われ、御目見医を仰せつかっている。

二男の蒿庵は寛政3(1791)年生まれで、幼名を広次郎といった。鶴岡の家中新町に住み、町医を営んでいたが、のち酒田に転居、本町六ノ丁(現在の本町三丁目周辺)で町医を開業している。

天保2(1831)年、白崎五右衛門一実は、酒田町年寄添役となって町医修業引立係を兼ねていたので、かねて計画の医会所を酒田の中心地本町を選び、蒿庵と4年、同宅に医会所を設置、蒿庵と共に医術の向上と貧民の施療を行った。

天保4(1833)年から同8年まで続いた凶作は天保大飢饉となったので、他郷からの飢民が割に余裕のある庄内に流れてくるだろうと憂慮した蒿庵は、伊庭屋安右衛門や廻船問屋近藤屋などと町奉行に申し出、米穀2500俵を買い入れた。

その数カ月後、酒田にも飢饉の様相が現れてきた。そこで前に買い集めた2500俵の米穀を売って得た利益金に、酒田の金持ちから200両の寄付金を加え、900両を町奉行所に差し出し、蒿庵は「こういう時は医術を以て病気を治療するより、とりあえず飢えたる人たちを救うことが急務である」と語っている。

町奉行もこれに感激し、医会所の蒿庵宅にコメの安売り座を設けさせたところ、日に2000人も買いにきた。なお買いかねた人には2合ずつ施米をして、安売り座は半年間続けた。また蒿庵に続いて本間家5代目・光暉も5年間、1日1500人に施粥を続けている。

ところで蒿庵が調合した丸薬の「補心丸」が評判よく、遠くの京都においても有名になり、梶井宮が服用され、その効果大なりと、蒿庵を法橋(ほっきょう・僧の称号。中世以降、医師や画家などに授けた五位相当の称号)の地位に補任しようとの内旨があった。

没年は慶応2年。子息の順策に、父・蒿庵の偉業をたたえて、明治3年、県より七百疋の賞与金を賜っている。

(筆者・荘司芳雄 氏/1993年12月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

佐藤蒿庵(さとう・こうあん)

医師。寛政3年生まれ。天保4年、白崎五右衛門と協力、医会所十全堂を創設、医療に当たる。天保飢饉の時には、治療よりも餓死から救うのが先決と、同士に呼び掛け、施米を行い窮民の救済に尽力した。また、考案した丸薬「補心丸」は京都でも有名になり、梶井宮に献上された。慶応2年死去。

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