「私の心には自然を征服する砂を喰い止めよう、砂と闘うと云う気持が強かったが、考えてみれば人間の力で自然に抵抗するとか征服するなどと云うことはおこがましいことだ。自然に従順でなければならない。飛砂が起きたら飛砂を止めようとせず、飛砂が独りで鎮るように仕向けるところ砂防の方法であり、決して自然に逆らってはならない(日刊林業新聞社発行の『大正昭和林業逸史』より抜粋)」。これは「海岸砂防の父」と称えられた富樫兼治郎が『砂防と親しむ二十年』に書いている言葉である。
富樫兼治郎は大正10年大学を卒業すると秋田県能代小林区署に赴任した。口下手でしゃべるのが嫌いであったから、仕事本位の小林区署を希望したと言っている。
大正13年、28歳で生保内営林署長となり、一時満州に転じたが、昭和18年扇田営林署長、戦後は早口営林署長、秋田営林局の造林課長、経営部長などを経て、25年に酒田営林署長となった。
昭和14年に富樫兼治郎は海岸砂防林造成についての論文を発表した。秋田方式といわれるもので、ここに海岸砂防秋田方式が確立された。この方式は内陸部から海岸前線に系統的に人工砂丘を造成し、飛砂を防止して、広報の砂地が砂草に覆われ安定してから黒松を植栽する方法である。(『秋田営林局 百年のあゆみ』)
3年半の酒田営林署長を最後に、昭和29年官界から身を退くが、この地に残した功績は非常に大きかった。その一つに15カ年継続、国費17億円を投ずる日本初の国営庄内海岸砂防林造成事業を庄内浜に持ち込んだことである。庄内の美田を飛砂から守るものであり、庄内7000町歩の砂丘地開発の基本を成すものであった。
庄内海岸居住民の強い要望があった酒田・吹浦間の酒田海浜道路を27年に完成させている。海岸砂防私財運搬道路であるが、観光道路・産業道路として期待された。鳥海山駒止まで造った鳥海林道も鳥海登山道としての役割を果たすものであった。鳥海山を中心とした治山・治水事業にも力を注いでいる。
長い間の海岸砂防の研究は、『日本海北部沿岸地方における砂防造林』の名で昭和12年に刊行され、高く評価された。病気中の39年、後輩たちによって再版された。
昭和7年に林業界最高の白沢賞受賞。日本林学会賞、河北文化賞など多くの賞に輝いている。
農林技官。明治29年3月大宝寺村(現・鶴岡市)富樫石蔵・ちよの長男として生まれる。渡前村(現・鶴岡市藤島地区)出生ともいわれる。荘内中学校、東京帝国大学農学部林学実科卒業。酒田営林署長時代、優れた営林行政の業績と、実直、柔らかな物腰で大変評判が良かった。昭和40年7月4日死去した。