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郷土の先人・先覚306 大野早生・庄内金魚の生みの親

阿部治郎兵衛(弘化3-昭和4)

大正2年に「農事の改良、耕耘肥培の講究、米質の改善増収、敬神崇祖、村社の維持経営、青年の指導誘掖、四十年一日の如く村務」に励んだことなどで、八栄里村(現・庄内町)阿部治郎兵衛は表彰された。

阿部治郎兵衛自身が書き残したものを見ても、84年の生涯は、正に前記の通りである。

明治3年8月中旬のある日、父と酒を飲み、よもやま話をしていた。その時、自分の家の田である「宇泓中揚」向かい二枚目東畦端に、当時流行していた甚兵衛早稲を植えていたところ、その中に元文下早稲と似た稲があり、それは甚兵衛早生よりも4、5寸茎が長いということを聞いた。

早速、その場所に出掛け、それを抜穂し、その育成に努めた。結果は良好で、多収、美味、水害に強かった。この稲に村名の大野をつけ「大野早生」と称した。庄内のいたるところ、8、9分通り植え付けられたと治郎兵衛は記している。

大野早生は明治10年前後の早い時期に固定され、明治21年の県報に大野早生の名が報じられている。

治郎兵衛はその後も稲の品種改良に情熱を傾け、大野早生四号まで出した。大正10年の大野早生の栽培面積は、5646町歩といわれている。横山村(現・三川町)の須藤吉之助は、大野早生の変種から「早生大野」の品種を固定し、その最多栽培年の大正9年には栽培面積が1万3006町歩に達している。

阿部治郎兵衛は、庭田(現・酒田市)の伊藤卯之助、酒井新田(現・酒田市)の早藤鉄蔵などと共に、庄内金魚の創始者とされている。

阿部家に残る「覚之書」によると、明治7年治郎兵衛が松山藩の領地測量のため、左沢に行った時、金魚養殖場をみて、金魚養殖が農家の副業として最適と考え、初めて省内に導入したものという。その利点としては、自家の田圃で養殖でき、現金収入を得ることができるなどであった。

阿部家3代にわたって研究を続け、在来種とオランダシシ頭の交配を行い、大正2年、固定に成功。同15年「庄内金」と名付けた。鮮やかな赤色、形が優美で尾が長いのが特徴で、振袖金魚とも言われた。

治郎兵衛は明治9年に地租改正係・保正、14年に東田川郡勧業世話係などを務め、15年には若勢達がが乱暴を働くことから、これを廃止し、火防組を組織し、火防資金を始めている。

(筆者・荘司芳雄 氏/1994年3月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

阿部治郎兵衛(あべ・じろうべい)

農業。弘化3年、大野村(現・庄内町)に生まれ、幼名・民治。口碑によると、阿部家は最上義光の臣、400年ほど前にこの地に住み、慶長17年北楯大堰掘割の時100両上納、10代目は大小御免御家中格・余目組総主、肝煎・寺子屋もやっていた家柄、代々治郎兵衛を襲名、その17代目。八栄里村収入係、助役なども長い間勤めた。農事勉励で明治19年に鎌一振、同21年に木盃などを受賞。昭和4年3月22日没。

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