鵜渡川原村(現・酒田市)の村長として、41年間の長きにわたって村勢の発展に生涯を捧げたのが、新関弥惣吉である。
新関弥惣吉は明治22年、市町村制施行とともに、鵜渡川原村の村長に就任した。鵜渡川原村は亀ケ崎城の城下町で、士分である足軽屋敷を約200戸抱えている村であった。
明治維新によって職を失った足軽達は、この地に帰農した。帰農者の生活は窮し、それに村の資力は貧弱で、村全体の地価金も52700円余に過ぎなかったが、武士であるという誇り高き土地柄であった。
村長に就任した新関の村政方針は、財政力に貧弱な村の「維持経営を安全に、独立永久の基盤」を固めるために、▽村有財産の増殖▽教育の振興▽産業の発展―を3本柱とした。そして、地方自治を育てていくには、「公民相互の理解と誠意ある協同」が必要であると説いている。
村有財産の増殖では、特に最上川鮭漁の漁業権がある。昔から最上川での鮭漁は盛んで、その漁業権は明治維新後、帰農士族に譲られ、のちに鵜渡川原村に移管された。新関はその漁業権を鶴岡町の薄衣辰蔵や酒田町の佐藤安蔵らに賃貸し、一年間に約600円の賃貸料を村の基本財産として蓄積している。
この地は明治初年より、粕谷治郎らによって大規模な桑園が開かれ、養蚕が行われていたが、新関自身も産業の発展に養蚕が重要な役割を果たすものと考え、その発展に尽くし大日本蚕糸会山形支会の鵜渡川原委員にもなっている。明治32年には綿ネル織伝習所を設置して他から織物教師を呼び、村内の女子に機業を伝習させている。
新関は特に、教育の充実こそが、村の発展の基礎となるものと考えていた。
明治33年、村会議員の多くは、村財政が困難で容易ならざるを理由に、高等科、裁縫科、専修科の全廃の村議を提出し、村民の多くもそれに賛成であったが、新関は最後まで廃止の件を村議会に提案せず、教育を守り抜いた。
村税を一銭も使わず、漁業権の賃貸料による積立金によって、明治36年郡内有数の小学校を完成させ、また、教育内容の充実にも心を注いでいる。
明治23年ごろの夜学をはじめ、同38年に実業補習学校を設置。亀城青年団、女子団の整備など青年教育にも熱心で、郡内のトップをいくものと評価された。
公吏。安政2年12月28日、鵜渡川原村袋町に生まれる。代々拝領屋敷を継ぐ士族であった。鵜渡川原村農会長、最上川漁業組合組長、飽海郡教育会議員、飽海郡仏教会顧問など多くの役職に就き、昭和4年鵜渡川原村が酒田町に合併するまで村長の座にあった。貧困家庭の児童への学用品の給与、不就学児童の対策などにも功があり、明治45年、文部省に選奨され、県からも150円賞与された。性格は温厚篤実であった。昭和8年4月13日に亡くなった。