以前の酒田には、鍛冶町、桶屋町、大工町、肴町、染屋小路など職業を町名にした町が多かった。桧物町(ひものまち)もその一つ。同業者が軒を並べていたので、俗称・曲師(まげし)町とも呼んでいたが、今ではそんな家並みもほとんどみることがなく、町名も二番町と新町名に変わっている。
かつての桧物町に住み、幾多の名作を残した曲物師・田畑久作は、明治16年4月、酒田で父・久三郎の三男として誕生している。
琢成小学校、青年夜学校を卒業した15歳の少年時代、酒田十王堂町(現在の二番町周辺)の田中丹十郎に弟子入りして曲物師の道を歩み始めた。当時は労働基準法などもちろんなく、年期奉公で5、6年間も無報酬で技術を覚えるため働くのが常であった。主人や兄弟子は手を取って教えず、技術を習うには「自分の目で盗め」と言われ、どんな職人でもこの厳しい修業に耐え、一人前になっている。
久作もこうした苦労にめげず仕事に没頭した。その傍ら徒弟の身であったが、大阪に工芸展を見学に出掛けるほどの仕事熱心であった。
やがて二十歳で年期奉公を終え曲物店を開業。浜弁当、蒸籠(せいろう)、柄杓(ひしゃく)、神棚、火器など曲物細工に打ち込んだ。のちに、作品が美術工芸研究家で日本民芸館を設立した柳宗悦に注目され、知遇を受ける。昭和14年には第一回貿易局工芸品輸出振興展に出品した組小箱が入賞。時の商工大臣より表彰を受けた。また同16年、第二回民芸展に出品した茶碗入れが特選の栄に輝いた。
以来多くの賞を得て脚光を浴び、陶芸家で文化勲章受章者の浜田庄司や近藤京嗣らとも親交を深め得たことは作品の優秀さと、筋の通った人柄が、一流の文化人に認められた、ということだろう。
長い間家庭の生活用品として使用された曲物を、民芸品としての分野までその水準を高めたことは、久作の創意工夫と、努力の結晶が実を結んだといえる。
家人の語るところによると、性格は直情径行で、半面、涙もろさがあったという。そんなところからか、青年時代は政治に関心を持った。
「西にレーニン、東に原敬」などの名言による雄弁家で、進歩的政治家として活動した永井柳太郎に私淑したという。没年は、昭和42年享年86歳。
曲物師。明治16年4月、酒田に生まれる。15歳で田中丹十郎に弟子入りし、二十歳で年期奉公を終え、店を構える。浜弁当、蒸籠(せいろう)、神棚などの曲物細工に打ち込み、その作品は美術工芸研究家・柳宗悦に注目され、知遇を得る。家庭用品だった曲物を「民芸品」の域へ高め、昭和16年、第二回民芸展で茶碗入れが特選に輝く。その後、数多くの賞を受け、陶芸家・浜田庄司らとも交友を深めた。昭和42年、86歳で死去。