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郷土の先人・先覚31

尾形 六郎兵衛

尾形六郎兵衛氏の写真

鶴岡市加茂の尾形家の6代目。日本北洋水産業の先駆けとなった人だ。

尾形家は海運業をしていたが、5代目が回船問屋を始め、加茂港を拠点に北海道と往来。米や大山の酒、さらに海産物を海上輸送し商いをしていた。

明治13年、21歳で家名を継いだ6代目(本名・安五郎)は、やがて根室沖や国後、択捉(えとろふ)島の漁場と関係を結ぶようになった。漁業に関係するには、まず漁場経営者に出漁資金を貸し付け(仕込みという)、仕込み条件として漁場経営者から漁獲物の委託販売をうける。

明治24年に自営船幸力丸(約200石積み)を建造、仕込み投資していた国後島西海岸のルルイというサケ・マス漁場の漁獲物を内地に輸送した。

この仕込み経営は2年間続いたが、これが北海道の本島を離れて漁場に関係した最初の事業で、同29年には新潟の小島造船所で日本型改良船の幸悦丸(75トン)を建造した。

33年に前年新造した西洋型帆船幸徳丸(52.77トン)に乗り込み、樺太の東海岸多来加漁場に出かけ、漁場仕込みをした。

こうして北洋に次々と漁場を拡大、所有船も増やした。ことに日露戦争(37-38年)後は、樺太にサケ・マスの好漁場を確保した。

この漁場は樺太一の河川、幌内川が注ぐ河口に近いところで、前から有望と目をつけ、入札に参加して落札した。落札価格は5560円。

そのころ、4年前に建造した帆船幸力丸(65トン)の建造費、3年前に新造した幸益丸(58トン)の建造費がいずれも4610円であったというから、落札額は船1隻の建造費に匹敵する価格だったわけである。

39年はいよいよ自分の漁場で漁業を自営する記念の年、3隻の所有船(幸力丸、幸悦丸、幸徳丸)を漁場に派遣した。

尾形家が獲得に成功した漁場は、樺太全島の中も最高の好漁場。幌内川はサケ・マスが最も多くいるところといわれ、そ上最盛期の7月中旬から8月初めにかけては、川の中に立てた棒が倒れないといわれたほどサケ・マスが多く、大きな利益をあげた。

41年に全国から出漁している漁業者で、露国沿海州水産組合(翌年露国水産組合に)が設立されたが、組合員は157人。このうち県内では尾形家と、酒田の小倉金蔵の2人。よい漁場と、先輩に恵まれて発展した。

北洋の漁獲量はサケ・マスのほか筋子。

大きな利益が上がる半面不幸な出来事もあった。日露戦争後間もなく、バイカル湾で1隻が拿捕(だほ)された。航海術がいまと異なって幼稚で、方角を間違うこともしばしばあったということで、密漁の嫌疑を受けた。乗組員は間もなく釈放されたものの、船は没収となった。

また、大正5年には北海道から帰航中の高力丸が暴風で遭難し、乗組員とも行方不明になった。この年は不幸が続き、漁獲物を売りさばくために上京した6代目が、東京で病に倒れ、10月25日、日本の北洋漁業発展に大きな足跡を残し、56歳で生涯を閉じた。

尾形家ではこの年にカムチャッカの事業を打ち切り、所有船も1隻残して3隻を売却し、安全で利益の多い樺太の漁場経営に絞った。昭和46年に7代目六郎兵衛がまとめた「北洋漁業への航跡」によると、樺太の2カ所の漁場から得た利益は、明治40年から大正9年までの間に累計52万円。「米価の値上がり指数からみるといまの5億円になる」と書いてある。

(1988年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

尾形 六郎兵衛(おがた・ろくろうべえ)

鶴岡市加茂、尾形家の6代目。本名・安五郎。日本人として初めてカムチャッカ漁場の経営者となった。尾形家は海運業を営んでいたが、回船問屋にかわり、漁業も始めた。根室沖や国後島のサケ・マス、ニシンなどの漁場を開拓、また樺太からサケ・マスを仕入れて国内に供給した。そして北洋漁業に進出し、カムチャッカ、樺太の漁場経営者として活躍した。文久1(1861)年生まれ(前年の万延元年生まれの説もある)で大正5年10月25日、56歳で病死。加茂の少林寺に眠っている。

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