明治時代に「豊平村の尊徳」と称された北海道開拓の先駆者・阿部与之助は平田町大字北俣字石鉢山の出身である。
貧しい生活を送っていた阿部与之助が故郷を離れ、単身酒田港より北海道に渡り、漁夫となったのが明治3年7月である。当時の漁夫は酒食に賃金を消費していたが、与之助は勤倹に励み、賃金は郷里の父母に送りながらも若干の貯蓄を心がけている。
3年の激しい労働によって得た資金で、明治6年5月豊平川河岸に宅地を求め、粗末な家を建て、開墾と日雇の仕事を続け、妻のチノは家で餅や酒、鹿の肉などを売っている。当時この地は広漠とした荒野で、戸数も24戸に過ぎなかった。
石狩地方は水田に適さない地としてみられていたが、与之助は明治16年水田を開く決意をし、非常な苦心の結果、1町歩の水田を得た。25年には、水田の面積が60町歩に達している。しかしこの地は水利の便が悪いことから、与之助は有志と相談し、27年自ら先頭に立って延長15キロの水路を造った。これで、200余町歩の水田が開け、豊平地区の市街地の防災にも役立っている。
与之助は田畑140町余を所有する大地主となったが、北海道の開発を助け、貧しい人の生活の安定を目的に郷里より63戸の移住者を受け入れている。明治末には豊平地区(現・札幌市)の戸数1500、田園4000町歩に達したのも与之助の功績大とされている。
北海道の森林が荒廃してきたのを憂いた与之助は、明治17年に5町6反余を求め、杉や松などを植え付け、失敗を重ねながらも落葉松の育成に成功。19年には同志と北海道造林合資会社を設立し、364万坪の貸し付けを受け、造林事業を進めている。また鯉の養魚事業にも取り組んでいる。
与之助は地区の子供の増加につれ教育の必要性を痛感、15年有志と相談し、学校を建て、教員の給料を自弁した。16年に校舎や設備を公共に寄付し、その後も多額の寄付を続けている。また、消防機関整備のため、350円を寄付して私立消防組を組織し、明治33年豊平地区で250戸焼失の大火が発生するや、自分の宅地を最初に提供し、道路の拡張を唱導して、従来の三間道路を十間道路にしている。
開拓者。天保13年忠五郎の三男として生まれる。農事の改良発達を図るため札幌農会を組織し、理事となり農産物共進会なども行っている。公共への寄付は枚挙にいとまなく、郷里の光伝寺にも三尊仏を寄進した。与之助の弟の清吉も北海道に分家、牧場などを経営した。藍綬褒章などを受章。大正元年月寒公園に功労碑が建立された。大正2年6月30日に死去した。