昭和8年12月17日酒田市日和山公園において、荒木彦助の胸像の除幕式が行われ、夫人の手によって序幕された。像建立の発起人は元酒田町長の中村弘で、風雨の中にもかかわらず、酒田の政界・財界などを代表する200人が参列し、酒田築港の先覚者であり、酒田市電気事業創立者の一人でもある荒木彦助の遺徳を称えている。
荒木彦助は「米都」酒田の米商の代表者として活躍した一人である。明治9年に米商会所条例により、明治初年に設立された官営の米座が廃止となるや、若き荒木彦助は酒田で米穀商を開業、庄内の米商界に乗り出した。酒田における民間業者の先端をいくものであり、米商界のリーダーともなった。
明治26年、酒田米穀取引所が設立されると、彦助は米の仲買人として活躍するようになる。仲買人は米の受注先の代理行為をする者で、政府の免許を受け、最も信用を重んじられた代理商であった。当時の仲買人は13人で、古くからの富豪層が多かった。これらの仲買人の中でも彦助の経営手腕は優れ、着実に事業は発展していった。
明治34年に米穀委託問屋、36年には営業所を船場町に新築し、39年に肥料外国米販売業、40年には材木商も手掛け、事業の拡大に努めている。
荒木彦助は酒田町勢の発展のため多方面で活躍している。その一つは、当時衰退していた酒田港の復活である。港復興のための最上川改修には非常な熱意を持って当たり、築港第一期事業の着工を導いている。
二つ目は鉄道誘致運動である。「鉄道から取り残された庄内に鉄道を」と長い間運動し、大詰めを迎えた明治41年には宮城、秋田、弘前、青森など東北一円を周り、奥羽横断速成の運動を行い、上京して通信大臣に請願している。翌年には日本海沿岸鉄道促進のため新潟に飛ぶなどの目覚ましい働きぶりであった。
電気事業創設では酒田町を二分する争いとなったが、結局、酒田町営電気事業と決定した明治39年以来、彦助は電気事業調査の協議員に選ばれた。42年には電気事業達成に「終始一日の如く拮据尽瘁(きっきょじんすい)」したとして表彰されている。
教育面でも酒田教育会を創設してその会長となり、育英事業にも力を尽くした。明治30年酒田商業会議所が創立されるとその議員となり、長い間産業開発の進展に努めている。
米穀商。嘉永5年に酒田下内匠町に先代彦助の長男として生まれた。幼名・久米太郎。13代目。幼少の時、近江町質商斎藤仁兵衛宅で見習い奉公。町会議員、飽海郡会議員、酒田商業会議所会頭、酒田報恩会理事、酒田育英会理事など多くの役職に就く。明敏で温厚、社会への奉仕を心がけ、母への孝心が厚かった。「偽善は一時の勝利にして永久の失敗、正直は永久の勝利」を常に口にしていた。養子の幸吉、子の彦太郎、彦治も経済界や文化面で活躍している。大正7年1月17日に亡くなった。