庄内地方から由利郡(秋田県)まで駆け巡り、稲作指導に生涯を傾けた情熱の人・丸藤政吉は西荒瀬村酒井新田字元泉(現・酒田市)の出身である。
青年時代は他家に奉公して農業の汗を自ら体験するとともに、村の青年団でも指導者として活躍した行動力のある人であった。
戦後ニューギニアから復員、昭和22年同今日の富樫広三とともに農業専門誌『荘内農業通信』を創刊した。以来寝食を忘れて編纂を続け、稲作指導と農村振興に貢献している。その間、広三の跡を継ぎ二代目社長となり、社運の隆盛に伴い『農村通信』と改め、読者の拡大に努力した。
こうして同誌を基盤にした稲作指導は体験から得た理論で、対話や討論にも真摯な姿が見られ、人を引き付ける魅力があったという。
揮毫を請われると「稲恵」「稲香四海」と書いたと聞いており、農にかけた決意がにじみ出ている。
過日筆者が同氏宅を訪ねたところ、床の間に「稲恵」の掛軸が飾られていた。家人の語るところによると、みご(稲の穂のしん)で作った筆で書いたという。素朴な中にも豪快さが溢れる書体で、生前の面影が彷彿として浮かんでくるようであった。
こうした座右の銘をモットーにして、稲作技術向上に意を尽くし、地域の人たちと一体になって努力した人柄は多くの人に信頼されるとともに、『農村通信』の声価を高めている。
また農業関係の知名人との交友も広く、多くの人たちが庄内を訪ねて意見の交換などを行っている。
ほかにNHK農事放送通信員も委嘱され、「昼のいこい」の番組など放送分野でも活躍され、そうした功績を賞されて、日本放送協会長表彰を受けられている。
その他、山崎農業賞、酒田市民表彰などを受賞され、いかに卓越した指導者であったかを知ることができる。
名声を望まず、肩書を誇らず、常に庄内・由利の田園を愛情の目で見つめた指導者としての姿は、あたかも秀麗・鳥海山の如く美しく、大きなものであろう。
西荒瀬村酒井新田字元泉で、大正10(1911)年3月30日、農業を営む両親の長男として誕生、長じて村の青年団に加わり農村問題や文化活動に若さを発揮していた。当時元泉に水稲の育成と品種改良に身を挺している富樫雄太と出会い、その情熱に魅せられたことが稲作指導に生涯をかけた発端であったと思われる。
豪快な半面、緻密な人で責任感と温かい人柄は多くの人に慕われた指導者であった。没年は平成7年1月。75歳であった。