森藤右衛門らを中心として、庄内にも自由民間思想が高揚してきているさなかの明治14年、飽海郡では貴島郡長が不法の施政を成しているとして、酒田中学校資本金問題など不法11カ条をあげて、郡長排斥運動が展開された。
また、酒田町の戸長選挙や明治天皇巡幸の際の行在所問題などで、酒田や飽海郡は激動し、その中で森藤右衛門ら自由民権家たちの活躍は目覚ましいものがあるが、その一人に西野長がいる。明治14年の中学校資本金の管理運用に住民も参加させる上申書に、飽海郡の人民代表として森、松本清治とともに西野の名もあり、明治天皇の行在所を経費軽減のためにも飽海郡役所に設置しようとする運動でも活躍し、巡幸奉迎総取締役の一人に任命されている。
酒田町聯合会議員としても、明治13年の会議で、教育行政を鋭く追及している。一例を挙げると「世話掛ヲ撰挙スル者ハ人民カ又ハ戸長カ」と質問し、学務委員が選ぶとの答弁を得ると、「世話掛ヲ撰挙スル権利人民ニアラスト、然レハ時宜ニヨリ増減スルノ権利ハ何レニアリヤ」「假令人民一般不当ト認ムルモ戸長及ビ学務委員ノ権内ニアリテ人民ニ於テ増減スルコト能ハザルヤ否確答ヲ受ケタシ」と迫り、結局、世話掛の増減の権利は人民にあるという当局の答弁を得ている。
また、教員数を増減する権利が人民にないとの答弁に対して、過分な給料が「民力ニタエズ、ソレガタメ人民困難ヲ極ムルモクチバシヲ入レ、コレヲ適宜ニ増減スルコト叶ハザルヤ如何」と追及し、予算面についても「過分ノ金員ニテ民力ニタヘザルト思考スレハ、コレヲ節減シタキ項目モ多クアリ」と発言し、自由民権運動家としての面目をいかんなく発揮している。なお、西野は町聯合会の幹事でもあった。
教育問題には特に関心が強く、明治20年の飽海全郡聯合町村会においても、奨学金の貸与希望者が増えているにもかかわらず、利子の低落で育英事業資金の運用が困難になっていることを指摘し、改善を求める発言をしている。
若くして酒田町上本町の戸長、酒田町聯合会議員、飽海全郡聯合町村会議員、明治22年から31年まで酒田町町会議員、酒田町名誉職助役、34年から飽海郡会議員。27年の庄内大地震の時は震災救済委員として、人民の救済に力を尽くしている。
商業。弘化3年酒田町本町三丁目に生まれる。父は西野長兵衛。酒田三十六人衆の一人で廻船問屋を営んだ豪商。地方政治に携わる一方、酒田第七十二国立銀行の株主総代で、一時は支配人兼務取締役。鐙谷家とともに酒田米商会所の仲買人でもあった。大正3年死去。