俳句を趣味として、作句に情熱を傾けた「いさむ」は仮名書きのペンネームで、本名は勇である。
江戸時代長流舎(ちょうるや)の名の知られた左母里(さもり、本名・柿崎孫兵衛)という俳人がいた。昭和22年柿崎弧村は祖先・孫兵衛のため蕉風会を再興、2代目は伊藤酉水子、3代目はいさむが継いでいる。
青年時代は東京で働き、途中病に倒れ療養中、俳句に興味を覚えた。そのころ有名な俳誌『ホトトギス』の主幹高浜虚子に師事した飯田蛇忽(だこつ)主宰の『雲母』に共鳴、投句を続け指導を仰いだ。
その後、病も癒え故郷に戻り、羽黒山俳句大会に参加した折、石原八束(やつか)を知り知遇を得、俳誌『秋』にも加入し、『雲母』の両誌に投句を続けて俳句の道に研鑚した。まじめで温厚な性格が作句に反映して同人や愛好者に親しまれ、期待された俳人である。
昭和58年1月には句集『砂潟抄』を発刊している。
○鰯雲月は湖心を漂えり
○語らいに音なき川の遠霞
○しみじみと余生を語る夜の秋
たんたんとして明鏡止水を感ずるような句である。
句集の序文に大内句鬼氏は次のように記している。「…すべての虚飾をふるい落とし、最後に得た一字一句の組み立てによってゆるぎない作品となる。省略の文学と呼ばれるのもこのためである。作句生活三十五年の著者も、偽を捨て真に生きたことは、すべての作品が如実に是を実證している。(後略)」
また、あとがきに著者は「…俳句会とは同好の人が相集い、和やかに楽しむ事が第一と思っております。その和の精神から句の進歩が生まれてくるものと信じております。(後略)」と記しており、和を大切にして高ぶることのない著者の姿勢が、句会に参加した人たちの励みになったという。
そのほか古文書にも興味を持ち、生まれ育った西荒瀬村(現・酒田市)のことを丹念に調べており、郷土史にも精通した人であった。
○水帳は離散の記録春さむく
○古文書の墨匂ふ夜の四温かな
この句の中にも、かつての厳しい農村生活の一端を垣間見るようである。
平成元年に惜しまれて亡くなった。
西荒瀬村宮海字日向(現・酒田市)で明治42年誕生。職業は山形県蚕業普及指導員である。
農村育ちで能弁ではないが温かさを含んだ話しぶりは、相手を引きつける魅力があり、また作句生活40余年のベテランでもあった。
そうした人柄と句歴が買われ西荒瀬公民館の俳句会講師を委嘱され、以来7年間も続けられたことは地区民の信頼と和の心であろう。
だが惜しいことに平成元年10月15日、1冊の句集『砂潟抄』と蕉風会に尽くした功績を残し、80歳で死去した。