最上川の鮭漁の発達に大きな貢献をした一人に薄衣孫右衛門がいる。
明治維新によって帰農した酒田・亀ケ崎城の足軽を救済するために、最上川河口の初瀬・中瀬・下瀬の3カ所の漁業権が元足軽居住の鵜渡川原村(現・酒田市)に移され、鵜渡川原村の基本財産となった。
前々より最上川の鮭漁の有利さに注目していた孫右衛門は、その鮭漁に資金を提供し、多大な利益を得ている。明治16年に東京で水産共進会が開かれると、勧業に熱心な孫右衛門は県の出品委員に任命されたが、共進会で山形県の出品物に見るべきものがなかったことから県の役人より叱責を受けた。しかし、孫右衛門は竹のすだれに描かせていた最上川での雄大な鮭の大網漁を展示し、皇后陛下をはじめ多くの参観者に深い感銘と興味を与えた。その際、農商務卿・西郷従道より鮭網を実用に適したものに改良したなどの功績によって、銅牌四等賞を授与されている。
明治31年、孫右衛門自身が鵜渡川原村の基本財産である最上川での三つの瀬の鮭漁を請け負い、同25年までの5年間だけで693円の請負金を支払っている。
これは学校資本金などに積み立てられ、鵜渡川原村の財政の立て直しに一役を担い、村民の生活に多くの利益を与えた。なお、明治15年には鵜渡川原村の小学校に100円を寄付している。
孫右衛門は庄内における養蚕業の発展にも力を注いでいる。早くから養蚕業が有望であることを知り、明治2年、米沢で2万5000本の桑苗を買い求め、安い値段で有志に分け、赤川沿岸に植えさせている。同5年にも1万7000本を購入し、士族の開墾地に提供している。費用は1020円にも達したが、川北・川南の養蚕業の発展に大きな力となった。
さらに養蚕のなんたるかを知らない人々のために、桑苗作りから始まり、養蚕の過程、真綿の製造、販売、養蚕神の祭り、養蚕の利益による一家団欒までを13枚の絵にし、養蚕の利を説き、普及に努めている。輸出用の蚕卵神を横浜に出荷したのも孫右衛門が初めてとされている。
交通運輸面での活躍も著しく、三島県令に清川新道開削の有利性を建言、明治11年よりその工事を請け負い、3カ年で完成、三川橋の架橋工事も担当した。内陸通運会社鶴岡分社を経営し、庄内地方の陸運業の発展にも力を尽くしている。
実業家。文政10年9月12日、鶴岡町下肴町に生まれた。幼名・七三郎。家業の肴商を継ぐ。町肝煎であったが、讒言され川北に追放となる。のちに許され帰郷するが、最初に恩人の郡代高橋省助に会い、謝意を表し、藩に1000両を献じた。帯刀を許され、五人扶持となった。戊辰戦争の時には秋田方面の地図を作り、敵情を探っている。明治10年に県の勧業世話係となる。自主自立の道を歩み、家訓を残す。明治26年7月27日没。