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郷土の先人・先覚333 酒田の芸道隆盛に貢献

今咲屋咲江(安政2-大正15)

江戸時代には酒田の遊所として今町・船場町・高野浜が賑わったが、明治27年の庄内大地震で船場町は壊滅的な打撃を受けた。以来、酒田の花街は今町と新町に分かれ、新町は「吾妻屋辰枝」、今町には「今咲屋咲江」が覇を競った。

咲江は安政2(1855)年、酒田今町に生まれ、幼いころから利発な子で芸事を好んだという。

当時繁盛した今咲屋のことについて『荘内案内記』には次のように記されている。「今咲屋旅館(今町)もと今清楼と称せし料理屋にて、女主咲江子は酒田芸界の師匠株になり、客室は清浄、雅潔にして(中略)、中庭を隔てて小亭あり静閑塵外の趣あり、官吏・商人好んで来投する。又宜(む)べなり」と、その豪華さと貴紳名士の客の多いことに誇りを持ち、今咲屋主人として業界でもその名を馳せた。

芸の道にも日夜精励し、音曲は山田流の箏(こと)、舞踊は藤間流と、いずれも宗家の免許を受け、その名声を慕ってくる多くの門下生を養成して酒田の芸道に大きく貢献した。

また、当時舞踊界の家元として知られた花柳寿三郎の踊りに魅せられて師を酒田に招き、花柳流を伝えた功績は大である。こうしたことなどから、藤間流は新町周辺、花柳流は今町界隈を中心にして、それぞれ発展していったようだ。

そのほか、咲江は文学的な才能を持ち、詩歌・俳句などの教養を身につけているし、囲碁・将棋や書画に至るまで幅広い趣味を持った文化人であった。

現在、北今町善導寺境内に今咲屋咲江をたたえた記念碑が建っている。「(前略)高貴相紳の名士の酒田に来遊するや、毎に其席に侍して地方の名を辱めず、茲を以て其名声遠く京阪に聞ゆ、刀自又舞踊箏曲を教授する事数十年、其門下数百に及、為に当時今街花巷の芸道県下に冠たりと(中略)今、門下相謀りて賛碑建つ」と刻字されている。

建立は没後の昭和7(1932)年である。撰文は菩導寺の導與、篆并書は村上久作(五舟)、なお、碑文の最後に賛句(さんく)として一句添えられている。

・花ふ雪(ぶき)に 秋に尚よし月の宴

かつては里謡に「今町・船場町・高野浜・繁昌じゃおまへんか‐」と歌われたが、時代の推移と娯楽の変化で昔の面影もなく、ただ咲江師匠の碑文のみに、わずかながら往時のにぎわいをしのぶのみである。

(筆者・荘司芳雄 氏/1996年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

今咲屋咲江(いまさきや・さきえ)

酒田の花街としてにぎわった今町で生まれた。名妓とうたわれた吾妻屋辰枝の姪にあたり、芸の道で名を成した一族のようである。

辰枝は天保8年、咲江は安政2年生まれ。年代はわずかに離れてはいるが、ともに酒田の芸道隆盛に生涯をかけた女性たちであった。

酒田に花柳流を育てたことは咲江の功績である。没年は大正15(1926)年、71歳で亡くなった。

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