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郷土の先人・先覚345 軽妙な戯画描いた天才

土屋鴎涯(慶応3-昭和13)

幼少のころから絵が巧みで暇さえあれば折手本などで絵画に親しみ、特に師をもたなかったという。長じて鶴岡・酒田・新庄などに職を得、勤務のかたわら文人や著名人らと交わり、画人としての才能を伸ばした。他人から請われれば快く引き受け、軽妙な鳥羽絵風の鴎涯独特の戯画で、天才といわれたようである。

気さくな人柄と交友関係で多く作品が残っていると聞く。昭和41年鶴岡市の致道博物館で「酒井忠宝・土屋鴎涯展」を開催。殿様と鴎涯の絵が並んで人気を呼んだという。

その後、本間美術館により「庄内の釣‐時之運‐」が別冊『垂綸極意』と共に出版。さらに『露船漂着』(みちのく豆本)など出版された。その中の‐時之運‐には刀剣研究の権威で文学博士、佐藤寒山の次の序文がある。「鴎涯翁ハ土屋親秀ト云ヒ我ガ父ノ従弟也、最モ戯画ヲ好ミ自カラ鳥羽絵ト云フ、磯釣絵ハソノ得意トス所ニシテ文言洒脱、抱腹絶倒セシムルアリ、乞秘蔵」。

次に鴎涯は「猫之巻序」として長文を記している。「(前略)帰宅ノ時喰フガ専一ト決心シ図解ノ上ニ説明ヲ付ケ一冊ヲ作テ見タガ虎ノ巻ト称スル資格ナク、魚ヲ目的トスル望ミダノデ猫ノ巻ト題シタ、我ガ子孫ノ外絶対見セテハナラヌ(中略)虎ノ巻ヲ盗ミ取テ名ヲ挙ゲタ古事モアルカラ要心シ給ヘ穴賢々々 名に魚に揚る手なくば凧なれや、人にしめしてならぬぶんぶん」。

末尾に「大正十三年九月 酒田正徳精舎 鴎涯道人」とあり、ページを追って見ると戯画特有の軽妙さと、歯に衣を着せぬ文体は読む人の心に伝わり余韻の残る絵物語である。

過日、知人宅でのことであるが、床の間の掛軸が江戸期朱子学派の儒者・石川丈山の「福禄寿」と題した漢詩、書は鶴岡の土屋竹雨、絵は土屋鴎涯で、当代一流の文化人の筆になる逸品を拝見させて頂き、目の輝きを覚えた。

酒田に夜会式(よえしき)という神社の夏祭りがある。中でも三居稲荷神社は盛大で夕暮れになると「地口灯ろう」(地口とは成語にごろを合わせた言葉の洒落で、地口と戯画を描いた灯ろう)を境内や軒下などに飾ったが、この絵も大方鴎涯の描いたもので、大正から昭和の戦前まで酒田を彩った風物詩であり、当時を知る人の郷愁でもある。

また絵は多くの分野に渡って描いており、庄内の文化史であり、風俗史でもある。

(筆者・荘司芳雄 氏/1997年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

土屋鴎涯(つちや・おうがい)

慶応3(1867)年鶴岡新屋敷で土屋伊敬の長男として誕生。幼名・正太郎、のち親秀。鴎涯は画号である。

鶴岡苗秀学校(朝暘第二小学校の前身)を卒業して広野小学校の授業生となる。長じて鶴岡、酒田、新庄の裁判所に勤務。のち酒田の本立銀行、飽海郡耕地整理組合に就職する。

酒田の生徳寺を宿としたとあるので、酒田に残っている絵や地口灯ろうの鳥羽絵もこのころ描いた作品であろう。また、大正14年に摂政宮が庄内においでの際、絵画19点を台覧に供したという。

昭和13(1938)年、享年72歳で死去した。

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