絵師として幕末から明治にかけて活躍した墨湖(画号)の姓は斎藤であるが、後年、松嶺(現・酒田市松山地区)の旧称中山をとって中山墨湖を名乗っている。幼名久作で後、仙捋とも称した。
幼少のころから絵が巧みで、父が藩の茶道役を務めて江戸に在勤の折、同道、当時文人画家として名高い江戸の谷文晁の高弟・春木南湖に師事、茶道の傍ら日夜絵の道に精魂を傾けた。
やがて文化13(1816)年、茶道役を辞して松嶺に帰ったのが45歳であった。その後、同地荒町の鹿児島紋右衛門の家屋敷をもとめて酒造業を営むも経営不振のためか廃業。別の場所に住んで、絵の道に専念した。
墨湖は山水画を得意としたといわれるが、特に鶏を庭に放って常に写生したといわれ、「鶏の墨湖」と評判されるほど多くの鶏絵を残している。掛け軸仕立「梅に鶏」もその一つで、見事に描かれ風雅の感が両面にあふれている。そのほか羽黒山の襖(ふすま)絵をはじめ、花鳥風月なども多く描いている。
また、墨湖の画業につき特筆すべきことは、長寿の絵師としても知られ死亡の前年まで筆を持ち、103歳の長命で大往生を遂げている。
過日、余目町資料館で「中山墨湖遺作展」を鑑賞する機会を得た。その中の主な作品を年齢別に抜粋してみた。
◇掛け軸仕立
梅に鶏 94歳筆
菊に鶏 97歳筆
梅花扇 100歳筆
中国人物像 101歳筆
竜・虎・二幅対 102歳筆
◇屏風仕立 六曲一双
春秋花鳥図(春) 85歳筆
春秋花鳥図(秋) 85歳筆
◇絵図
老人草庵図 90歳筆
竜図 92歳筆
この中で掛け軸(二幅対)仕立「竜竜・虎」は墨湖102歳と記され、最晩年の作と思われるが、壮者を凌ぐような筆力のたくましさと、竜・虎が今にも画面から飛び出しそうな生気あふれる凄さがあり、102歳の絵師とは思われぬ逸品である。
墨湖と同郷で静居(せいきょ)という名の知れた絵師もいたが、彼も墨湖から絵を学び、静居のほかに庭湖の画号をもっている。墨湖の師匠も南湖であるところをみると、画号の中にも結ばれた師弟の絆を感ずるようである。
稀なる長寿を保ち、亡くなるまで絵の道を追究し続けたことは驚異の人で、偉大な画人である。
安永元(1772)年松山藩の足軽・斎藤清賀の子として生まれる。父が藩の茶道役として江戸在勤、墨湖も江戸に上り文化11(1814)年、父親の跡を継ぎ茶道役となり、「伝賀」の公名を頂く。その後、同13(1816)年、45歳で同役を辞し郷里に帰り酒造業を営むも廃業。
以後は江戸で習得した画業に専念して名作を残した。当時、墨湖の長寿にあやかり、年齢を記した絵を頼む人が多かったという。
明治7(1874)年3月、103歳という長い生涯の幕を下ろした。