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郷土の先人・先覚350 南米航路開拓に成功

神足徳三郎(明治17-昭和38)

大正12年9月1日関東大震災が発生し、東京・横浜方面に大きな被害をもたらした。天皇が震災復興視察のため横浜に行幸されたのが昭和4年4月23日である。その際、神奈川県庁で震災復興などの功労者に列立拝謁が許された。海運界を代表して栄えある拝謁者の一人に選ばれたのが酒田町出身のキャプテン・神足徳三郎である。

震災当時、大阪商船株式会社のロンドン丸とパリ―丸は横浜港に係留中であった。大地震によって岸壁は崩壊し、係留中の船は港外に出た。そこに避難民が押し寄せてきた。

ロンドン丸の船長であった神足はこの悲惨な状況を目にし、パリ―丸と共に港内に踏み止まった。余震の続く中、救助を求めて叫び声をあげている避難民を海員とともに次々と救助した。その数は数千人にも達した。

神足がこの救助活動に成功したのは、生命をも考慮せず、沈着に行動した海員の功とし、その働きに感激のあまり男泣きしている。拝謁の光栄も、当時の海員にどうしても分けてやりたいと述べている。

神足は鳥羽商船学校卒業後、大阪商船に入社した。第一次世界大戦中、ボロボロの襟裳丸に乗り込んだ。ドイツの潜水艇の漢詩と攻撃の恐れの中、ポートサイドを拠点にマルセイユやロンドンに航行して、運輸の大任を果たした。その働きは高く評価された。

南アメリカの未開の島に、難航路ではあったが、イギリスの宣教師派遣に協力し成功した。また、昭和元年にケープタウンに寄港した時、排日感情が強く、この地の人夫が貨物の陸揚げを拒否したため、神足は海員と荷揚げを行い、完了させた。キャプテンカミアシの名は海外にも広まった。

昭和7、8年ごろブエノスアイレス丸の船長として、南米移住民の輸送に大活躍をした。そのためブラジルやアルゼンチンなど南米の国々との結びつきが強まった。

アルゼンチンの有力な政治結社がブエノスアイレス港付近に、この地域の住民21万余人でデラボカ共和国を設立。昭和8年、神足は最高幹部3人のうちの一人に任命された。推戴式にアルゼンチンの内務大臣や参謀総長などこの国の有力者が多数参列している。

最高幹部推戴の理由は、船長として10年間無事故で世界一周を20回、関東大震災の救助活動、昭和7年の太平洋上での12人救助、日ア国交親善への努力などである。

(筆者・須藤良弘 氏/1998年1月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

神足徳三郎(かみあし・とくさぶろう)

船員・船長。明治17年1月、酒田町上台町に生まれる。少年時代から船員となる志を抱いていた。非常に真面目で、酒もたばこもたしなまなかったという。港に着いても上陸せず、留守番役を買ってでた。身だしなみがよく、化粧には女性より時間をかけたらしい。昭和38年10月11日死去。

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