佐藤常太郎は、山形県師範学校を卒業して、長い間初等教育界で活躍した人である。また「愛竹」の号を持つ能書家としても知られた著名人でもあった。
師範卒業後、最初の赴任校は地元の小学校であったと聞いている。その後教えを受けた子弟らは「真面目で几帳面な方で、いつも厳然とした態度で厳しい先生であったが、教室を離れれば私たちの遊びの中に溶け込み、校外でも面倒見よく指導してくれた若い人気の先生であった」と、当時の印象を語っている。
酒田を中心にして多くの学校に勤務されている。最後は昭和16(1941)年一条小学校の校長で長い教員生活に終止符を打っている。
その後は光丘文庫、商工会議所、帝国石油に勤め、昭和36(1961)年には市史編纂室に嘱託として勤務し、文字に関する博学を発揮されて難解な古文書史料解読に努力を続け『酒田市史史料篇』の第一巻から第五巻までの膨大な原稿を整理編集して、貴重な図書発刊に貢献した緻密な頭脳の持ち主であったと聞いている。
嘱託解任後はその手腕を認められて「市史編纂委員」に任命され、後世に残る『酒田市史』発刊に力を尽くしたという。
そのほか能書家として前掲したが、少年時代から筆をとり、後年山口半峰(はんぽう)に師事して研鑚を積んだ。
半峰も酒田生まれで幼少のころから書に優れ、長じて書道の大家・長三洲に師事して中等教員習字科の免許を得る。その後、上京して書道に励み、実績を評価され大正9(1920)年には文部省より選ばれ『小学校国定教科書習字手本』を書いた。書道界の重鎮である。
こうした師の指導を受けた彼の作品は、品格の高い書風で多くの人に親しまれた。また一貫して古典書道に情熱をかけた書家でもあった。そのほか「酒田古文書同好会」の講師として毎月海員に古文書解読の指導に当たっている。
律儀な人で晩年はすっかり円熟され、書の揮毫も快く引き受けてくれた。また釣りの趣味があり、同じ教育者で、中山竿といわれた釣りざお作りの名人中山賢士と盟友で、趣味を通じた終生の交わりという。
書に押す落款は「愛竹」、書の肩に押す関防印(かんぼういん)は「一竿風月」で、一本の釣りざおに身を託して風月を楽しんだ生き方が偲ばれる。
明治22(1898)年、酒田荒瀬町(現・酒田市一番町周辺)に生まれる。幼少のころから筆に親しみ、近所の筑後町に住む山口半峰に書を学ぶ。長じて教員を志し、43(1901)年山形師範学校を卒業、その後31年間の教員生活を一条小学校校長で終えた。
教員の傍ら能書家としても、古文書解読でも活躍。昭和47(1972)年に享年83歳で死去した。