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郷土の先人・先覚353 キノコの人工栽培普及

河村柳太郎(明治25-昭和53)

河村柳太郎はキノコの人工栽培とその普及に画期的な業績を残した。

終戦直後の混乱した世で、農村も疲弊していた。当時、農工一体を唱えていた石原莞爾将軍は、シイタケ栽培による農村振興策を県農業会飽海支部長の渋谷勇夫に伝えた。シイタケは経済的にも壊滅した日本を再建する輸出見返り品としても注目されていた。

戦前から農民のために北平田村信用販売購買利用組合を設立したり、産業組合運動で活躍してきた渋谷勇夫は、シイタケ栽培が農家の副業として安定しており、将来の農業恐慌にも備えることができると考えた。そこで、渋谷勇夫は三重県津市に日本農産会社を設立し、シイタケ種菌製造をしていた河村を招いた。

河村は明治43年、静岡県主宰の長期講習会で受講した「椎茸学科」の講義に感動し、シイタケの人工栽培法の研究に入った。昭和11年には山梨県の林業試験場の技師として、シイタケの菌糸培養と移植栽培法の研究に努めた。12年に「きのこ類人工種菌植付法」を発明し、21年に特許を得た。これは25年には通産省特許局から優秀発明に選ばれている。

v従来はシイタケ菌が偶然に木に付着し、自然発生と待つという自然栽培法で、発生するまで4年間を要し、発生率も30%であった。それに対し河村式は培養菌植え付け跡、半年で100%発生した。

河村式はホダの適当な場所にせん孔器で直径約1センチの穴を開け、皮と樹質の形成層に培養菌を注射器のようなもので注入し、そのあとを特殊なロウで封ずるものである。菌に雌雄があり、受胎した胞子だけがキノコになることから、寒天培養で雌雄を支配し、これをおがくずに拡大培養して、受胎した胞子だけを植え付けるものである。

昭和22年、渋谷勇夫らは酒田市戸野町の農業会倉庫跡に30万円の予算で河村食用菌研究所を創立した。寒冷地ではシイタケ栽培は不適とされていたが、適温状態を保てば、寒い所の方が品質が良く、冬の湿度が培養に適し、冬期の余剰労力も活用できるとして、事業は開始された。河村食用菌研究所は、シイタケ栽培の処女地であった東北地方・北海道の拠点として成長。ナメコやシメジなど約10種類の種菌を培養し、その売上高は東北のトップをいっている。

(筆者・須藤良弘 氏/1998年3月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

河村柳太郎(かわむら・りゅうたろう)

明治25年4月静岡県初倉村に生まれる。高等小学校卒業後、木炭同業組合の職員となり、シイタケなどの研究を行う。山梨県の産業技師など歴任。戦後、酒田市の河村食用菌研究所で指導。河村式椎茸普及会を組織して、東北地方や北海道で椎茸の人工栽培法を普及。

昭和25年には藤枝市にも河村式食用菌研究所を創設。努力を重ねた研究の結果、取得した特許・実用新案7件。勲五等瑞宝章など受ける。昭和53年9月24日死去した。

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