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郷土の先人・先覚355 国語教育の先駆者

関時発(慶応元-昭和20)

関時発は慶応元年、鶴岡の家中新町で生まれた。庄内藩の武士であった父が明治8年に亡くなり、あとに残された親子4人の生活を支えるため、時発は16歳で西田川郡中学校を中退して、母校・朝暘学校の代用教員になった。しかし、月俸三円ではどうにもならず、一家離散の瀬戸際まで追い詰められた。そこで時発は正教員の資格をとるため昼夜の勉強に励み、18年に検定試験合格、鶴岡の由良学校勤務し月俸六円となった。

その後、松嶺学校訓導兼校長となったが、目標は中等科国語教員になることで、明治34年難関の検定試験に合格、県立山形高等女学校兼山形女子師範学校教諭になった。当時、山形県の教育現場では言文一致体・国語文体への模索が始まっていて、その具体的な実践活動として作文教育を主とした文芸誌「文化の花」と「婦美草」が創刊され、その編集責任者が時発であった。

また、時発は生徒からの信頼が厚く色々な相談を受けていた。その中に哲学者として有名な阿部次郎がいた。社会人になってからも次郎はよく時発の自宅に遊びにきた。そのたび毎に時発は「ずろうちゃきたか」と快く迎えた。

明治39年、県立山形高等女学校兼山形女子師範学校を退職。

時発は実によく勉強をした。特に惜しまれることは10年以上の歳月をかけ「漢和大辞典」の原稿が完成したのに、昭和20年東京大空襲で焼失したことである。原稿は毛筆細字でびっしりと書かれ、行李に一杯の分量があった。もしこれが発行されていれば、全国的に学問的評価が高まったことは間違いない。晩年は東京都板橋区山形県人同志会の会長も務め、昭和20年2月25日、灯火管制の明かりの中で79歳の生涯を閉じた。戸外には雪が降り積もっていた。

(筆者・岩田明 氏/1998年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

関時発(せき・ときあき)

慶応元年、鶴岡で生まれた。父・時利は庄内藩に仕える200石の武士。戊辰戦争で無理を重ねたのが原因で、長く病床にあり明治8年に亡くなった。時発は西田川中学生徒だったが家計を助けるため中退。母校・朝暘学校の代用教員となった。しかし家族4人の生活は苦しく、18年には正教員の資格を取った。34年、念願の中等科国語教員検定試験に合格。県立山形高等女学校兼山形女子師範学校教諭。その後、岡山、奈良、茨城県で教員となり、56歳で退職した後、東京に転居。晩年は板橋区山形県人同志会の会長や「漢和大辞典」の研究に没頭した。79歳で亡くなった。

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