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郷土の先人・先覚36

森 藤右エ門

森藤右エ門氏の写真

植木枝盛の著書『民権自由論』の表紙に、日本の代表的自由民権人として佐倉宗五郎、福沢諭吉、板垣退助、森藤右エ門がえがかれている。このことをみても藤右エ門が中央で高く評価されていたことがわかる。現に明治8年からしばしば上京し、ワッパ一揆について元老院・左院・内務省、司法省、警視庁等へ建白書や願書を出したり、新聞に投書するなどの活躍をしていたころ、すでに今宗五郎とか天下の義人として世にもてはやされていた。

ところが、地元の酒田ではつい最近まで、森への評価はきわめて悪く「家をつぶした、無学文盲の暴れん坊」といわれていた。実際はそうではなく、天保13年本町三丁目(現・酒田市役所近く)の豪商唐仁や(36人衆)に生まれた彼は、小さいときから医師・須田文栄について漢学を習い、長崎にも遊学しており、明治2年には学而館の教師となっていることからもわかるとおり、当時酒田きっての学者であり知識人だった。第一、無学文盲では建白書を書いたり、法廷闘争や言論活動をやれるはずがない。

ワッパ一揆というのは明治7年7月、政府が年貢をお金で納めても良いとしたのに、坂田県では依然として米納としたり、雑税を取り立てるとか、松ケ岡の庄内士族による開墾に農民を無償で使役するとかに端を発し、庄内農民騒動が酒田県相手に起こした農民騒動で、日本最長期といわれ、全国的にも著名である。

庄内農民全員のワッパ弁当に銭を入れた額に相当するほどの不正を酒田県はしているのでそれを取り返す、ということからワッパ一揆と名づけられた。

はじめは農民側も、鍬や鎌を持って酒田県庁に押しかけようとしたりしたが、県では松ケ岡の開墾士族を総動員して武力による鎮圧をもって臨んだので、さしもの農民パワーも下火になった。

このとき救世主のように出現したのが藤右エ門であり、彼は運動方針を法廷・言論闘争に切り替えた。時に彼は33歳である。上京前、彼は盟友だった新田目村の松本清治を訪ねると清治は所蔵していた大塩平八郎の梟首(さらしくび)を実写した絵を床の間にかけて、その前で水盃をして前途を祝した。

元老院に訴えたのは福島の河野広中の助言によるといい、その草案を書いたのは大内青巒居士(せいらんこじ)という。同12年には山形県下最初の政党である"尽性社"(じんせいしゃ)を組織し、14年には両羽新報を発行し、自由民権運動に尽力した。18年県会議員として活躍中、44歳で病没した。

(筆者・田村寛三 氏/1988年6月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

森 藤右エ門 (もり・とうえもん)

民権運動家。天保13(1842)年3月28日、酒田の酒しょうゆ醸造業唐仁やの二男として生まれ、幼少のころ池田家の養子になったが、生家に戻った。戊辰戦争にも参加、学才があったので、明治の初めに盛んだった農民運動を指導。国会開設運動にも参加し、明治12年に創設した「尽性社」は、庄内で初めての政治結社とされ、また同14年に酒田で発刊した「両羽新報」は、庄内における新聞のさきがけといわれている。酒田町戸長から県会議員に。明治18年9月16日、生涯を閉じた。

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