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郷土の先人・先覚37

阿部 正己

阿部正己氏の写真

私たちが庄内の成り立ちを語る上で、決して忘れられない人に阿部正己がいる。彼は天恵の才を思う存分に発揮して偉大な業績を残した郷土の誇るべき歴史家であった。いま、市町村史などをはじめとする庄内の歴史を書いた本を開いてみると、彼の調査・研究による部分が、意外に多くを占めているのに気がつく。

阿部拓弥(せきや)の長男として生まれた彼は、家が裕福だったので苦労もなく、鶴岡の荘内中学校を経て東洋大学の前身であった哲学館を卒業している。その後も父の仕送りで東京に住み、好きな古書集めで数年を過ごした。

明治43年、札幌に住む知人の紹介で北海道庁に招かれ、北海道史の編纂に精魂を傾けたが、在職10年足らずで大正7年40歳のとき郷里に帰らなければならなかった。利権争いに血塗られた史実の執筆を上司が許さなかったからだと伝えられる。

失意のうちに帰郷した彼は、酒田町役場で町史編纂の仕事をすることになった。しかし、正義感一筋で政治と妥協しない彼の記述は、時の町長や議会筋の受け入れるところとならず、同12年に辞職した。

その後は白崎良弥の招きにより光丘文庫で古史料の調査に励み、そこを退いた昭和3年ごろからの彼の動きは、まさに水を得た魚のようであった。収入がなく、売り食いの状態だったにもかかわらず、仕事を唯一の趣味としてその生を終えるまで、肩から斜めに掛けた革カバンとメモ帳、それに1台の自転車を武器に駈けずり回った。そのは飽くまでも実証主義的な、郷土史研究の驚くべきエネルギーであった。

成果の主なものを挙げても、考古史料23冊、古代から明治に及ぶ荘内史料24冊、元和以降明治までの松山藩や松嶺の史料54冊の編年体史料集としての取りまとめ、川俣茂七郎伝、本間郡兵衛伝、小関三英伝、出羽国吉野朝史、荘内製塩史、五人組掟の研究、大山騒動記、飛島史、出羽三山史、荘内藩幕末勤王秘史、山形県金石文集等の研究論文執筆など数限りがない。

考古学者鳥居竜蔵、喜田貞吉らの指導助言による城輪(きのわ)出羽の柵址や、黒森遺跡の学術的発掘・研究は特に有名で、さらには菱津の石棺や藤島の丸木舟の紹介もあり、その研究はすこぶる多種多様で広範囲にわたっている。昭和12年に言霊書房から出版した荘内人名辞書は、前記調査研究から生まれた副産物ともいえるものであった。

彼は直情径行型だったので、松嶺町長に推されて「政治は嫌いだ」と即座に断ったこともあったという。そして支那事変が始まったとき、59歳という年齢を忘れ、一年志願の少尉だからということで、第一線に派遣してくれと連隊区司令官に請願したエピソードも残っている。

戦争が終わった折には、これまでまとめた資料が全部、進駐軍に持っていかれるのではないかと随分心配したらしい。そのことが病気を悪化させる原因にもなった。病名は胃がんだったが、死期が迫ったとき、もっとも信頼する大瀬欽哉さん(鶴岡市名誉市民)を枕辺に呼んで懇ろに史料の整理を託した。現在鶴岡市立図書館の郷土資料室に、遺族から譲り受けた1890点の史料が"阿部正己文庫"として整理され、立派に並んでいる。

(筆者・秋保親英 氏/1988年6月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

阿部 正己(あべ・まさき)

歴史家。明治12年3月23日庄内松山に生まれる。同33年鶴岡の荘内中学校を終えて哲学館に学び、卒業後は北海道庁で道史編纂の仕事に従事した。大正7年に帰郷して酒田町役場で町史編纂業務を担当したが、事情があって光丘文庫に移り、昭和2年まで在職する。その後は郷土庄内を中心とする歴史の調査、研究に没頭。範囲は考古学より戊辰史その他にまで及んだ。遺跡の発掘、各種史料の収集・編纂、研究論文の執筆をはじめ、県の委嘱による史跡調べなど至らざるなく、すべて実証主義を貫いて、古今にもまれといわれるほどの大きな功績を残している。昭和21年3月15日数え68歳で病死。松山総光寺に葬られる。正教院大法活玄居士。

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