酒田市本町三丁目に記念碑が建っている。明治14年9月25日、明治天皇が東北をご訪問の際お泊まりになられた豪壮な邸宅があったところである。
当時この宿をつとめたのが一代の豪商といわれた渡辺作左衛門その人である。作左衛門は天保6年、飽海郡西荒瀬村藤塚(現・酒田市)の大組頭堀善蔵の長男に生まれたが、農業を嫌って16歳のころ江戸に上り、江川太郎左衛門の門に入り剣術などを学んだ豪快な人であった。
その後、どういうわけか、東田川郡田谷村(現・庄内町)の豪農・先代渡辺作左衛門の養子となっているが、生来農業の嫌いな人が百姓をやるわけがなく、やがて酒田に出て米商を営み、北海道への米輸送などで富を増やし、明治12年には県に取り入り、新井田倉庫の払い下げをうけて米券を発行して倉庫業をはじめた。これが当たって巨万の富を得ている。
そして、その年本町六丁目にある廻船問屋だった尾関又兵衛の家屋敷を買い入れ、さらに亀ケ崎城の跡地を買収して牧場を経営するなどして事業を拡げ、また、各種公益事業にも多額の寄付など重ねて感謝される一方、東京に豪華な別荘を建てるなどして、派手な生活を続けていたという。
そのころ、明治天皇が酒田においでになるとの情報が流れてくると、作左衛門はわが家に天皇をお迎えすることを思い立ち、時の政府高官にたくみに取り入った結果、渡辺家が行在所(あんざいしょ)の指定を受けた。
そこで作左衛門は出店の大改造を行い、まず2階をあげ豪華なお席を設け、目を見張るような屋上庭園を造って、渡辺家の家紋を染め抜いた紫の幕を張り巡らせ、家の周囲には大張提灯をたて、その偉容をほこったという。
そして最上川にも家紋入りの帆掛け舟数十艘を浮かべて天覧に供したというが、わずか1泊だけのお泊りであっても、作左衛門にしてみれば、一世一代の晴れ姿で、得意絶頂の時代であったろう。
貨幣価値の違う現在とは比較にならないが、記録によればこのとき費用は合計6450円50銭で、これに高度な調度品などを入れると万を越す金額であったという。だが、こうした無計画な出費と放漫経営で、翌15年にもろくも没落、新井田倉庫も本間家に払い下げられている。
快男子でもあり波乱万丈の人生を歩んだ作左衛門も、明治16年5月28日、49歳の生涯を閉じており、余目の流泉寺に葬られている。
砲術、撃剣のほか、吹き矢も得意。酒田で米商を営み、北海道へ食料を輸送したことが成功して財産をなし、酒田県学校取締を歴任して明治12(1879)年1月県会議員となった。しかし、県会議員は翌月辞任している。東京に別荘を設けるなど生活が派手だった半面、酒田の上日枝神社に寄進したり、酒田変則中学校東田川郡役所など各種公益事業に多額を寄付、感謝された。俳人でもあり俳名は「鶴昇」といった。