星野先生は明治8年旧手向村に生まれ、旧泉村大口小学校、旧手向村立大東小学校に学び、さらに荘内中学校(現・鶴岡南高等学校)から札幌農学校(現・北海道大学農学部)を卒業された。
その後、北海道大学の教授となり、農学部長を歴任。遂に名誉教授農学博士の称号をいただくに至った。先生は若くして裸一貫で北海道にわたり、文字通り苦学力行。わずか33歳の若さで、帝国大学の教授となられた。まさに立身出世の模範であったのである。
また、メンデルの法則をわが国にはじめて紹介した園芸育種学の権威者である。なお、また先生の先生たる所以は単に学者であるばかりでなく、常に郷土を忘れることなく、その人間的な心と行動力を併せ持つたくましい人物でもあったのである。今ここに一例を挙げるならば、庄内の子弟のために、北海道大学の構内に荘内寮の建設を計画され尽力されたのである。即ち育英の事業にも貢献され、幾多の人材を養成された。
庄内人でも案外知られていないかと思うが、酒田市のシンボルである「日和山公園の設計者」でもある。このことは「札幌市の大通公園の花壇の創設者」として有名であることと、考え併せる時、如何にもとうなずかれる事と思う。まさに今日考えても、先生は社会開発のためにも大きな貢献をされた先覚者でもあったのである。
その後も先生の功績は高く認められ、昭和4年には勲二等瑞宝章の栄誉によくされ、昭和36年には紫綬褒章を授与されたのである。
さらにまた郷里羽黒町においても、先生の数々の偉業に対して、初代名誉町民に推挙されたのである。
その後、昭和38年には郷里への思いもだしがたく、当町出身の夫人を伴って帰郷されたのである。そして翌39年札幌の自宅で永遠の眠りにつかれたのである。まさに御年89歳であった。現在手向の星野家にまつられている。その碑文は手向出身の名誉町民・寺岡謹平の筆により「寿徳院殿大勇健大居士」と刻まれているのも故あることと推察される。
農学者。明治8(1875)年10月羽黒町手向、宮本宿坊の生まれ。札幌農学校(現・北海道大学農学部)本科卒。園芸学研究に英・米・独・仏の4カ国に留学。40年に帰朝して同校教授に。同年秋学制改正後の東北帝大農科大助教授、44年教授になって園芸学を担当、大正4年農学博士。同8年北海道帝大教授、翌年農学部付属農場長を兼務。その後、欧米諸国を園芸視察に歴訪。メンデルの法則を初めて紹介した園芸育種学の権威者。