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郷土の先人・先覚43

白幡仲治

白幡仲治氏の写真

水産翁といわれる白幡仲治氏は、本県における近代水産界の発展に生涯を尽くされた偉大な先駆者である。

明治9年4月2日、加茂の船問屋・石名坂金六氏の子として生まれ、8歳の時に三瀬の篤漁家・白幡弥兵衛氏の養子となり、少年時代から漁業を好み、青年時代に至っては現役漁師として自ら帆船の櫓櫂を握り、漁場の開発や漁法、漁具などの改良研究に若い情熱を燃やした。

明治35年わが国初の漁業法が公布されるや、漁業経営の近代化に強い関心をもつ養父の志を継ぎ、26歳の身で当時四組体制であった地元漁業組織の合体に奔走。翌36年新たな豊浦漁業組合の結成を実現し、推されて初代組合長となった。以後五十年に近い生涯をその地位にあって、当地の水産業のみならず、広く庄内浜漁村の振興に大きな力をなしたのである。

組合長就任後は、以前にも増して意識的に全国各地の水産先進地を訪ねて、漁業基盤の改善や漁村経済問題などの研究に意を注ぎ、由良白山島への漁業基地築造のための架橋をはじめ、堅苔沢、由良、三瀬、小波渡の各地元漁港の多年にわたる改修工事の推進に努力するとともに、組合事業として専用漁業権、定置漁業権、底曳漁業権などの免許取得に尽力した。また、庄内浜一帯の水難救護設備や、漁業目標灯の設置、沿岸漁村林の造成などを力説啓蒙して、その実現のため日夜をいとわず誠意と熱意をもって行動した。

一方、「漁村振興の根本は人材にあり」との信念から、漁村中堅青年の育成を組合及び水産会の事業として積極的に実施するほか、県営水産試験場、水産学校の設置や水産指導船の必要性を提起しその実現に貢献した。

この間絶えず地方漁業組織の拡充強化を主唱し、明治36年西田川郡海面漁業組合へと改組して、淡水漁業を包括した水産業の道を開き、大正13年には山形県水産会の発足を実現して自らもその議員となり、後に副会長、会長の職を歴任するとともに同市から当時わが国水産界の全国組織であった帝国水産会評議員となって、以来長年にわたって本県水産界の代表として幅広く活躍し水産功績章をはじめ各種の栄誉を数々受けられた。

昭和24年74歳で他界の日まで、その一生を水産界に捧げられた翁の偉業を讃える彰徳碑が、庄内浜各地の団体により結成された報徳会の手によって、昭和26年善宝寺境内に建立されている。

(筆者・佐藤広雄 氏/1988年6月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

白幡 仲治 (しらはた・なかじ)

漁業家。明治35年に26歳の若さで豊浦漁業組合を結成し、自ら組合長となり、40年余にわたって庄内浜漁村の振興に活躍した。大正6年秋に完成した由良・白山島の橋も漁業指導者・今田栄氏らとともに奔走し、波浪と闘いながら架橋したもので、単なる観光だけでなく、漁船の避難所、根拠地を設置する上で重要な意味をもっている。昭和24年8月11日、74歳で死去。

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