郡兵衛は文久2年欧米各国や清国を巡遊し、西洋諸国の経済発達と、その経済侵略を東洋に向けていることを目の当たりに見て、このままでは日本は外国資本にやられる。それを防ぐには国家としての統一はもちろんだが、株式会社を作り、巨大産業を起こす事が何よりも急務と考えた。
廻船問屋に生まれた郡兵衛は、経済に敏感だったにちがいない。
ちょうどこのころ、薩摩の名家老・小松帯刀が英語教師をグラバーに求めたことから郡兵衛が推薦され、開成所の英語教師となった。郡兵衛は早速「薩州商社草案」をつくり帯刀に上書した。というのはこの草案が彼の生家である恒輔家に残っていて、郡兵衛が日本で一番早く株式会社を考えたことを物語る史料となっている。
開明的な帯刀は大いに共鳴し、大坂に設けてあった薩摩交易の拠点、大和交易方を拡張し、大和方コンパ二―という株式会社を組織することにした。大和方コンパ二―は別名、薩州商社ともいった。
慶応2年、郡兵衛は大和方コンパ二―に本間家の参加を求めるため、酒田に帰ってきた。彼は本間家から資本を出させるだけでなく、酒田港を東北の拠点としようと計画していた。従ってもしこれが実現していたら、酒田港が幕末の開港場に指定され、明治維新以降の立ち遅れをみないですんだかもしれない。
ところが、戊辰戦争直前で緊張していた庄内藩では、薩摩帰りの彼をスパイと疑い、外出を禁止するとともに、鵜渡川原の足軽目付にきびしく監視させた。
つい目と鼻の先の本間家にゆくこともできず、大計画を抱きながら、何もできなくなり、悶々としていた彼は、ついにたまりかねてある夜泥酔し、薩摩藩から拝領した丸に十の字のついた紋付羽織を着用して外に出た。そのため鶴岡の親類・池田六兵衛家に幽閉された。そして明治元年7月19日診察に来た藩医が置いていった薬を飲んだところ急死した。ときに47歳であった。これは毒殺されたものとされているが、彼はソクラテスのようにもはやこれまでと、毒とわかっていてあえて飲んだものであろう。
それからわずか2カ月後、庄内藩は薩摩の西郷ひきいる官軍に降伏しており、もし郡兵衛が生きていたら、維新後、経済方面で大いに活躍したであろうと惜しまれる。
彼は葛飾北斎から絵を学び北曜と号したほか、彫刻や文学にも秀でていた。酒田人に空気の存在を教えたともいう。
洋学者。本間家の分家・本間信四郎(国光)の二男。幼少のころから学問を好み、漢籍に親しんだ。天保10(1839)年江戸に出て蘭学を学び、葛飾北斎から絵を、竹陽斎友信より彫刻を習った。安政2(1855)年に洋書の翻訳に従事、勝海舟の請いをうけて勝塾の蘭学講師。さらに英語を習い、欧米諸国を外遊した。勤王運動を画策、酒田へ連絡のため戻ったところを捕らえられた。酒田市の浄福寺に埋葬されている。