三矢重松は明治4年11月29日、三矢維顕の二男として鶴岡二百人町(現・鶴岡市神明町)に生まれた。家は代々庄内藩士で祖父・静は藩の典学として禄130石を給されていた。
彼の生まれた明治4年には封建制の解体ともいうべき廃藩置県が断行され、さらに同9年には全禄公債の交付をもって従来の秩禄制度が全廃された。その結果士族層の中には生活難に堕するものが続出した。三矢家とてもその例外ではなかった。
彼が明治22年山形中学校を卒業、翌23年上京して国学院に入学。幸い貸費生に採用されたが、実家からの仕送りなど期待するべくもなく全くの苦学生活を余儀なくした。彼は同郷の有志学生らと家を借り「自炊庵」と称して共同生活を行った。これが後の「庄内館」の先駆ともいわれる。
明治26年国学院を卒業して文部省大臣官房図書課に奉職した。同28年時の文部大臣・西園寺公望(後の元老)が講演の中で西暦紀元を用い、持論の「世界主義」を唱えたのに対し、彼は一介の下僚でありながら国学徒の立場から、堂々とそれを反駁する論陣を張り、ついに筆禍となって退官を余儀なくされた。
この事はたとえ上司たちともはばからず、職を賭しても自己の信念に生きようとする彼の剛毅な人柄と共に、庄内人気質の一端を語るものといえよう。このような彼は所詮宮仕えに甘んじえる人ではなかった。
その後、彼は学問と教育の道に生涯をかけた。東京大阪などでの中学校教師を経て、明治32年嘉納治五郎の要請を受けて、東京の亦楽(えきらく)学院で中国人学生の教育に従事し、さらに母校・国学院や東京高師などで講師、教授として専門の国文学や文法学を講じた。門下からは多くの俊才が輩出した。折口信夫(釈沼空)、武田祐吉らはその白眉ともいうべきであろう。
彼は40歳ごろから難聴に悩んだが、そのために学究活動を怠ることはなかった。彼は国文法学の権威であるばかりでなく、源氏物語研究の泰斗であった。国学院の卒業論文が「源氏物語の価値」であった。幼時すでに母・町子からそれを聞き知っていたことが次の歌によっても窺われる。
手すさびの母がものせる 紅葉の賀おしゑよりこそ むつびそめけれ
(紅葉賀は源氏物語の巻の名)
大正10年国学院大学において「源氏物語全講会」を開催したことは、彼の源氏物語への情熱と素志を貫徹したものといえよう。その開講にあたって
長くとも後は六年(むとせ)を事なくて事なし果てむ神ちはひませ
と詠んで講座の無事完結するよう神に祈った。だが、六年はおろか翌年秋ごろから胃腸を病み、12年7月18日東京高田町の自邸で逝去した。享年51歳。神葬祭をもって雑司ケ谷の墓地に葬られた。没前「古事記に於ける特殊なる訓法の研究」によって文学博士の学位が贈られた。
家族は雪枝夫人との間に四男三女あり、弟に元帝室林野局長官を勤めた三矢宮松氏らがいる。
著書の代表的なものは「高等日本文法」で、そのほか没後門人らによって「文法論と国語学」「国文学の新研究」などの論文集や歌集「心のいろ」などが出版された。
彼逝って十余年その学徳を敬慕する学友門人らによって「三矢重松先生記念会」が組織され、記念事業のひとつとして、昭和11年生誕地にゆかりのある春日神社(神明町)の境内に次の歌碑が建立された。
値なき珠をいだきてしらざりし たとひおぼゆる日の本の人
そして湯田川の由豆佐売神社境内に昭和17年折口信夫が祭司をあげて次の歌碑も建立されている。
わがおもふ田川おとめにかざさせて見まくしぞ思ふ堅香子の花
大正9年の春、40年ぶりに湯田川の地を訪れ、しばらく滞在静養した折の連作中の一首である。毅然たる明治の碩学の心の中に咲いたロマンの花をかい間見るような感じがする。
昭和48年7月鶴岡南高創立85周年記念講演会の講師として、慶応大学教授・池田弥三郎氏が来鶴した際、「私の恩師は折口信夫先生であり、折口先生の恩師は三矢重松先生なのだから、私は三矢先生の孫弟子といっても過言でない」と話されたことが思い出される。
国学者。鶴岡の朝暘学校から西田川郡中学校を経て、山形県尋常中学校卒業。明治23年国学院の創立と同時に入学、26年に文部省入り。28年に退官し、翌年文部省の検定試験に合格して尋常中学校、師範学校国語科の免許状を受け、岡山、大阪の中学校に勤務。その後、嘉納治五郎に招かれ、同36年国学院卒業生を代表して国学院商議員。講師から国学院大学専任教授、学友会柔剣道部部長をつとめた。大正12年文学博士。