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郷土の先人・先覚47

須田古竜

須田古竜氏の写真

漢詩人、郷土史家(清河八郎事蹟調査)、古竜は幼少にして父・文栄から孝経・大学の素読を受けた。

明治13年古竜15歳、琢成学校の3階に郡立酒田中学が設置されると、古竜は中学生となり、中学主脳成富一郎の指導により、松田宇之吉らとともに切磋琢磨し、詩文を講習した。当時一流の詩人と称されていた岡千仭は、このグループに対し「後生畏るべし」と評したことは有名である。古竜はこの年から漢詩を作った。「秋思」と題して

竹影婆娑として月色円なり
虫声雨と注ぐ砌階の前
深沈柱に寄り思うは何事ぞ
草木秋風十五年

この頃、古竜は岡千仭の『尊攘記事』を読み、庄内人・清河八郎を知り、父に「八郎はいかなる人か」とたずねた。父は「お前の母とかかわりのある人だ」と話した。八郎26歳、江戸神田三河町の塾が類焼し、一時帰郷していた時、八郎の両親はじめ親類の者は、嫁でもいたら江戸行きを断念するだろうと、松山の人婦美を迎えて八郎に侍らせた。しかし八郎の決意が固い。仲人は婦美を江戸にはやれぬと連れ戻した。この婦美が古竜の母で、古竜6歳の明治4年に病没した。

この話を聞いて古竜の胸に一点の灯がともされた。それは八郎のことをもっと知りたいということであった。

八郎は幕末維新の激動期にあたり、卓抜なる見識をいだき、果断なる行動を以って明治新政をもたらした。企てたことがあまりにも大きいので、世に理解されぬことが多い。古竜はこれを遺憾とし、八郎の事蹟を調査し、この誤解を解こうとしたのである。

古竜は八郎の事蹟を探して歴遊した。明治時代は漢詩漢文の愛好者が多く、古竜は至る所で歓迎され、明治30年古竜32歳ついに「清河正明伝」(漢文)が完成した。

同36年古竜38歳、19歳の荘司むめゐと結婚し、11年間に5女を挙げ、それから5年隔てて男子をもうけた。ただ詩文に熱中し、定職とてもなく、ただ書画の鑑定と門人の篤志にとって生計を立てているので4畳半2間、1坪の台所、共同井戸に共同便所の生活は悲惨なものであった。門人が家屋を提供するというのも聞き入れず、清貧に甘んじていた。そして決して気品を落とすことはなかった。

晩年は本間家の援助があり清貧変じて清福を楽しんだ。妻は昭和18年没した。享年59歳であった。

昭和20年3月、古竜は国の前途と戦場にある息子を心痛めつつ病没した。享年80歳。

(筆者・小山松勝一郎 氏/1988年6月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

須田 古竜 (すだ・こりゅう)

漢詩人、郷土史家。字は子化、号は古竜、通称は文太郎。酒田本町三ノ丁に慶応2(1866)年11月23日生、昭和20(1945)年3月17日没。郡立酒田中学在学中詩作をはじめ、のちに佐田白茅・馬杉雲外に指導を受け、東北詩壇第一の人と称された。清河八郎の事蹟調査に生涯をささげ、門人に伊東懐亭、佐藤古夢、本間岳南、白崎鳳陽、最上谷碧水、荘司吟龍などがいる。著書に『清河正明伝』、『酒田聞人録』などがあり酒田市立光丘文庫に蔵されている。『清河八郎詳伝』を著そうと志していたが、果たさずして逝去した。

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