米に対する世界の目は厳しいが、質が真剣に見直されている今日、阿部亀治の創選した水稲品種「亀ノ尾」のこれまでに果たしてきた役割は非常に大きいものがある。
阿部亀治は、明治元年3月9日東田川郡大和村小出新田(現・庄内町余目地区)の農業・阿部茂七の長男として生まれた。幼少より農業に従事し、教育としては当時の寺子屋に学んだのみであったが、独学自習、良く近隣の篤農家と交わり、知識を得ては自ら実践、研究を重ねた。周囲の信頼を得るとともに最上川庄内南岸地域の農事改良事業に率先して取り組み、貢献した。
亀治が26歳の明治26年、立谷沢村(現・庄内町立川地区)の冷立稲(別名・水口稲)が冷害にあい、青立ち(不稔実)となっている中に、黄色に稔った3本の見事な稲穂を発見した。これを抜き取って帰り、2、3年間これを育成。固定した1つの純系をつくり、これに亀治の友人である太田頼吉が「亀ノ尾」と名づけ、ここに世紀の水稲大品種「亀ノ尾」が誕生したのである。
この品種の特徴は、風害に対して比較的強く、出穂より結実までの期間が短いために、種々の災害による被害が少ないこと。また、肥料を多く必要としないで安定した収量を得られることであった。
この性質は、水苗代育苗や金肥の未普及、冷害対応技術が不十分だった当時にあっては、画期的なものであった。
大正14年は全国で19万4114ヘクタールに栽培され、神力、愛国とともにわが国の水稲三大品種の1つに数えられ、今日の優良品質米の代表、コシヒカリ、ササニシキにその特質が受け継がれている。
明治18年、亀治が18歳のころ、政府が出した「済救趣意書」を見て感動。余目の佐藤清三郎などの行った乾田馬耕技術講習会に参加し、稲作の進むべき方向を感得し、周囲の反対を押し切って実行、好成績を得た。そのためこの地域の乾田馬耕は急速に進んだ。
また、亀治は雁爪の普及にも努めた。
最上川南岸、立川、余目地域は水利に乏しく、用水堰の開削は人々の宿願であった。
文久年間より開削に取り組んだ余目の人、佐々木彦作が3代にしても尚果たさず、東京の事業家・吉田寅松や、地域の協力を得て準備を進めたが中断。明治41年、東田川郡長を組合長とした吉田堰普通水利組合の手により通水を見た。亀治はこのとき40歳。すすんでこの事業に尽力している。
吉田堰の完成により水利を得た大和村一帯は、原野、畑地に凹凸が多く、大規模な耕地整理を必要とした。亀治は発起人となり、有志と共に耕地整理組合を創立し、選ばれて工事長となりこれにあたった。吉田堰灌漑区域の中でも模範工事と推賞されている。さらに大正2年、同村内650ヘクタールの耕地整理事業の総責任者として、同8年工事を完了。大和村の水田は一変するまでに整備された。
開田事業が進む中で、農家の経営上農民が安心して利用できる経済機関を身近に必要とした。亀治は同志と東奔西走して勧誘に努め、明治45年3月、有限責任大和信用組合を起こして監事に就任、組合の運営に尽力した。
亀治はまた農閑期の副業として製縄組合を組織し、推されて組合長に就任。最新式製縄機を共同購入して製品の品質を高め、高収入を得て実効をあげている。そして組合員に収入の一部を信用組合に預金するように勧め、農家経営安定への指導にも心を砕いた。
小出新田の小作農に生まれ、家業を継ぎ、温厚で研究熱心。早くから余目の篤農家・佐藤清三郎の指導を受け、湿田乾田化の必要性、寒冷地稲作の特殊性を学んだ。政府の済救趣意書に深く感銘、乾田馬耕、雁爪除草、水稲の改良などの研究に没頭。明治26年に優良新品種「亀ノ尾」を創り出した。国内だけでなく、朝鮮、台湾など広く栽培された。また、耕地整理、産業組合の創設、村農会の発展にも貢献。昭和3年1月2日61歳で死去した。