久村清太は酒田・今町(現・日吉町)の聴琴堂という経師屋、久村金蔵の長男として明治13(1880)年に生まれている。金蔵は表具師として全国にきこえた名人であった。晩年は南画に親しみ清斎と号し、富岡鉄斎とも親交があったといわれ、酒田に鉄斎の絵が多いのもそのためといわれる。
清太は明治31(1898)年、荘内中学卒業、旧制二高に学んでいる。このころ「サラリーマンになるため学校にゆくのではない、科学的研究心を養うためにゆくのだ」といっていたという。
その後明治36(1903)年24歳で東京帝国大学理科大学に入り、応用化学を専攻したが中退している。在学中から太陽レザー製造所と関係を持ち、学校は欠席のまま専らレザーの研究室に通い続けて研究に没頭、その手腕を認められて、誕生したばかりの東レザーの技師長に迎えられ、ここで人絹製造に精魂をかたむける。
大正7(1918)年には東レザーが帝国人造絹糸の設立に発展する。清太も帝国人造絹糸に入り取締役となっている。初めての洋行も同年で、諸外国を視察して大いに見聞を広め、翌年帰国している。
昭和9(1934)年には社長、同13(1938)年には国際パルプ工業の社長も兼ねて終戦後に帝人会長となっている。そのほか日本化学繊維協会長をつとめている。前述のとおり大正7年以来洋行もたびたびで、その都度人絹の製造法について視察し、化学者としての業績がみとめられ昭和3(1928)年には藍綬褒章を受章している。
ところで、多くの海外旅行で世界情勢や諸外国の事情に精通していた清太は、日本が宣戦布告をしたとき「これは困ったことをしてくれたものだ、敗戦は必至である」と無謀を嘆いたという。
彼は故郷を離れていたが親を思う心が深く、父の家業が表具屋であったので、仕事に使う糊(のり)についての化学的な助言や、脱色の方法など教えて父を助けていた。
また、昭和8(1933)年には父をともなって朝鮮に旅行して、心ゆくまで楽しませているところなどはすぐれた科化者であり、偉大な発明家でもあるほかに心の温かい人であり、親を思う優しい心と人間的な魅力が深く感じられる。
その父親・金蔵も終戦の年に亡くなった。その後、清太は昭和23(1948)年に『回想』を出版している。そして3年後の同26(1951)年、70歳で世を去り、酒田の善導寺に葬られている。伝記は丹羽文雄氏が『久村清太』を執筆している。
明治13年10月3日生まれ。荘内中学から旧制二高、東京帝大理科大学へ。応用科学科を中退。東レザー技師長、人絹製造の研究に没頭し、大正7年帝国人造絹糸取締役、昭和9年に同社長。国際パルプ工業社長も兼ね、戦後は帝人会長、日本化学繊維協会長もつとめ、人絹製造法を研究した化学者、発明家として名をはせ、昭和3年に人絹発明の功績で藍綬褒章を受けた。昭和26年9月1日、70歳で死去。