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郷土の先人・先覚54

阿部千萬多

阿部千萬多氏の写真

国士というといかにも古くさいが、国士とは自分のことよりも国益や民衆のためを考える人のことであって、今でもというより、今こそこうした国士が要望されているといえよう。千萬多はこの意味で国士であり、生涯の軌跡が吉田松陰に似ているように思われる。

文政4年、彼は亀ケ崎の足軽・阿部多助の子として生まれた。少年時代、同郷の佐藤三弥記(みやき)について学問と剣道を習った。20歳になると亀ケ崎で彼に及ぶものはなく秀才の名をほしいままにした。江戸に上り、彼は学問的才能を伸ばして天下に功名をあげようとの志を抱いたが、当時、藩士は特別の理由がなければ勝手に庄内を離れることができなかったので、数カ月の間、足が不自由なまねをしてようやく職をとかれ若隠居となった。

天保13年、23歳のとき亀ケ崎の医師・宮本正敏のすすめで、江戸お玉ケ池の東條一堂塾に入った。東條塾でもたちまち頭角を表し、師から「私には門下が多いが千萬多に及ぶものはない」と称された。「弟子系図」をみると一堂のあとをついだ子息・東條方庵のすぐ隣に記されている。

須田古龍の父・文栄は千萬多を「風采端正(ふうさいたんせい)・王侯の師表の風あり」と評している。人と議論するのを好み、よく酒を飲んでは学問を語り、当時、風雲急を告げていた時勢をなげき、長州の吉田松陰、桂小五郎らと交際した。安政元年35歳のとき、関東・東北の海辺を回って北海道に渡り、地勢や海防の実態を調査した。翌2年、幕府は松前藩を内地へ転封し、北海道を幕府直轄領として自らロシアに備えようとした。このとき彼は執政・阿部正弘に「危急の時に長く治めていた松前藩を転封すれば、人心は動揺するし、警備上も不利である」と上書した。

安政5年駿州(すんしゅう)沼津藩主・水野忠敬に儒臣として抱えられ、藩政改革に当たったが、ある夜、反対派の刺客4名におそわれ、重傷を負い、右眼の明を失った。

慶応4年、庄内藩の急を聞いて帰郷し、秋田・大曲近くの追分村で捕らえられた。隊長・桂太郎(後年の首相)の糾問に対し、西洋列強が東洋侵出を目指している今日、国内で戦争することの危険を説き、一日も早く戦争を止めよと、火を吐くような熱弁を展開したので、その人物であることを知った桂は千萬多を大切にするよう部下に命じた。しかし、間もなく庄内勢の攻撃に動転した兵士により斬殺された。時に48歳である。合掌して斬られたものか両手指もみな斬られていたという。

(筆者・田村寛三 氏/1988年7月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

阿部 千萬多 (あべ・ちまた)

文政4(1821)年酒田生まれ。若いころ大志を抱いて江戸へ。碩儒東條一堂に入門し、かたわら国学を修めた。安政元(1854)年、北海道へ渡って地勢、海防の実態を調査、幕府に対する国防の上書を起草した。一時、沼津藩主の水野忠敬に儒臣として仕官、刺客に遭い、慶応4年酒田に帰り、戊辰戦争に一番大隊の探索方として出陣。同年8月14日、相手の兵士に斬殺された。

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