昔から酒田家具の水準は高いといわれたが、その原因は経済力の大きかったことと、港町としての生活文化の発達からであろう。東京の家具研究家・小泉和子さんは「典型的な職人気質が多く、酒田家具の水準を高くしたのは、これら数多くの職人達の仕事に対する熱心さと誠実からである」と語っている。こうした土壌が名人指物師といわれた、斎藤兼吉を生んでいる。
兼吉は明治17(1884)年酒田の鷹町(現・相生町)で指物業を営む斎藤与惣右衛門の六男として誕生している。やがて少年時代の12歳から父のもとで指物修行に励んだのち、18歳から23歳にかけて、名匠といわれた鉄砲屋亀斎(鈴木浅吉)と、吉原火鉢を作らせては並ぶ人がないといわれた後藤又助の通い弟子となった。よき師を得た兼吉は一心不乱になって腕をみがき、24歳のときに作った総柱組支那造り棚が自分の気のいるような作品に仕上がり、嬉しさがこみあがったという。そしてこの作品が名工・兼吉を生んだ出発点であったと思われる。
同44(1911)年には名古屋で開かれた共進会を視察して、自分の目で先進地の家具指物の作品にふれ、いろいろな話を聞き見聞を広めており、新しい技量向上につとめている。
生涯で得意とした作品は、飾り棚・火鉢類・お盆などであったといわれ、中でも飾り棚には多くの名作が残されている。このころ東京に前田桑明(そうめい)という指物の権威が日本橋に工場をもって仕事をしていた。兼吉はこの人を頼って上京、桑明のもとで教えをこい、また、鶴岡生まれで工場長をしていた須田桑月という人に大変親切にされ、龍が水を得たように技術取得にはげんだ。とくに飾り棚に非凡の腕をみせ始めたのがこのころからと思われる。
大正8(1933)年卓越した技量を見込まれ、山形工業試験場の木工科職工長に招聘(しょうへい)され、県内各地をまわり木工指導にあたっている。同10(1935)年酒田に帰って指物業を自営、大正13(1938)年にはパリ万国博覧会に出品した食器棚が、見事に受賞の栄に輝いている。
おわりに伊藤珍太郎氏の『酒田の名工名匠』の中の「指物師斎藤兼吉伝抄」の一説を引用させていただいた。
兼吉は自分はからだが小さいので、同じ細工でもタンスなどよりは、小さいものに向かった方がよいと考えはじめた。この考えの芽生えがそもそも名指物師・斎藤兼吉をつくった端緒であったと記している。
亡くなったのは昭和45年8月、87歳である。
指物師。指物業を営んでいた父のもとで修行し、のちに地元酒田の名匠・鉄砲屋亀斎と、後藤又助に弟子入りしてみっちり修行した。明治44年名古屋で開かれた共進会を視察して見聞を広め、大正7年に上京、指物の権威者といわれた前田桑月に師事した。翌年、山形工業試験場木工科職工長に招かれて県内各地で木工を指導、同10年酒田に戻って指物業を始めた。酒田で皇族方に対する献上品の製作を担当、同13年パリ万国博に出品した食器棚が入賞している。