佐藤與之助、後政養と称し、李山と号した。文政4(1821)年12月、遊佐郷升川村(現・遊佐町)の與兵ヱ家に生まれた。農業のかたわら大井組大組頭・真嶋佐藤治に師事し、学問、彫刻を学んだ。博覧強記、頓才にすぐれていた。「佐藤李山先生逸話」という冊子に「一日與之助が笑いながら大井の寺に来て、只今村の若い者が集まって、薄いぞ薄いぞという題で、団々句をつけていたが、よい句が出ないので困っていた。私に一句やれといわれた。私は直ぐ承知してこんなもの造作もないと言ったけれども困ってあったが、直ぐ『薄いぞ薄いぞ褌とならぬ早木綿』とつけてやったと大笑いしてあった。」当意即妙の思いつきである。すべてこのような頓才に富んでいた。
嘉永6(1853)年、師の長子雄之助出府の後を追って33歳の與之助、同年8月江戸に登り、伊藤鳳山に漢学、彫刻を後藤恒俊に学んだ。しかし、当時の国情は安閑として漢学、彫刻を学ぶことを許さず、勝海舟の門に入り砲術を学んだ。
安政2(1855)年庄内藩砲術方を命じられた。そして同4年9月、長崎海軍伝習生となり、海舟に従い長崎に赴き、フルベッキ(オランダ)から測量、軍艦操縦の術を学び、同6年1月に江戸に戻った。
最新の西洋の知識と技術を身につけた彼を藩では「御組外徒士格五石、二人扶持料二石、手当金三両」を以って迎え、幕府でも「五人扶持、手当金月三分」を給して軍艦操練所蘭書翻訳方を命じた。元治元(1864)年5月、14代将軍家茂の乗船に乗り組み、大阪城で引見を賜り、将軍ナポレオン三世より贈られた望遠鏡を自ら與之助に下賜された。また與之助は、横浜の開港を師・海舟に献言し、遂に横浜開港を実現させた。横浜開港の父といわれる所以である。
当時、明治政府による日本の近代化はその急務で、鉄道建設はその重要な1つであった。
明治3年3月、東京より神奈川までの線路測量が令達され、汐留に測量の第一歩が踏み出された。政養は時に鉄道助(のすけ=次官)直接の工事責任者として日本最初の大事業に寝食を忘れて努力した。同年5月、品川~横浜(桜木町駅)間がようやく完成し、次いで同年9月2日(新暦10月14日)に新橋(汐留駅)~横浜間が全通、明治天皇のご臨席を仰ぎ、開業式が行われた。
政養、天皇のお車に同乗し、天皇よりお言葉を賜り手に持たれた日の丸の軍扇を賜った。これまた鉄道の開祖といわれる所以である。10月14日は鉄道記念日で「汽笛一声新橋を、はや我が汽車は離れたり…」の鉄道唱歌の生まれた日でもある。政養は政治、経済にもすぐれた見識をもち、著書に新刊輿地(よち)全図、三角或間上下2冊など数多い。彫刻としては郷里・菅野谷地の今井家、皇太神社の彫刻をはじめ、三面大黒、端俵の上に犬の子の煙草の根付など逸品を残している。明治10年8月2日、勝海舟邸で没し、青山墓地に葬られている。昭和3年、生前の功により従四位を贈られた。吹浦駅前に銅像がある。
鉄道功労者。幼少のころ親孝行で郡内に評判、たびたび藩庁から表彰を受け、また家業に従事する一方、彫刻、俳諧を勉強。弘化元年藩の推薦で江戸に出、砲術、蘭学を学び、安政4年勝海舟に従い、海軍伝習生となって長崎へ。ここで測量と軍艦操縦術を習得した。大坂台場詰鉄砲奉行などつとめ、横浜港開港を提起。明治維新後は鉄道助に任命され、東京~横浜間に我が国最初の鉄道敷設に尽力した。57歳で死去。地元では「せいよう」と呼ばれていた。