明治元年、伊藤雄二郎の長女として生まれる。伊藤家は幕末の碩学鳳山の出た家で、雄二郎は養子だが、庄内自由民権の祖といわれた進歩主義者であった。彼女18歳のころ、この父が失明し、その上母も病床に臥せた。幸せな少女時代が急に暗転し、両親を看病しながら一家の柱となり、弟・恭太郎を医学校に進める学資まで働き、その資をなったのが若い時習った裁縫だった。
自ら研鑽に研鑽を重ね、後には人に教えるようになる。明治26年孝子として県知事の表彰を受けた。
明治30年鶴岡高等女学校が設立されると、招かれて裁縫の先生となる。父の病篤きころはしばらく退いたが、亡くなると再び勤めた。43年、思うことあって退職し家塾を開いた。
その第1回門下生は、三浦広栄、三井政野、諏訪糸、宇治千代恵、中西鶴、中村淑、石黒常恵など有名な夫人たちであるが、女学校を卒業すると25人もうち連れて参上したという。それがますます増えるので向かいの佐徳さんの建物を借りて続けた。
その卒業生たちが如蘭会という会を組織し、年々集まっていた。その毛筆の会報が残っているが、大正13年1月ごろに「伊藤先生宅に新年会として集まる…今回の御成婚記念に世に役立つ何事かを為さんと志を起こし『裁縫塾』の設立最も時勢の要求する所…」と一決、直ちに趣意書を作り、資金募集にかかる。役員、顧問、借地の交渉、大工の見積工事…。
かくて5月31日、若葉町関さんの屋敷を借り、落成。開校したのが私立鶴岡裁縫学校(翌14年認可)である。その迅速果敢な実行力にはただただ驚嘆のほかない。
入学志願は年々増加し増築も間に合わず、昭和6年新形に1530坪の敷地を購入、250坪の校舎を建築した。
伊藤先生が毎年生徒に渡した印刷物に「本校の精神及訓育の実際」がある。「…現今の女子教育に対しやむにやまれぬ気持ちで本校を設立した…子孫教養の重任ある将来の母たる教え子を通して漸次果たしたい…この大きな仕事は神様、仏様よりうけた唯一の使命と確信し」とその信念を書いている。多年胸中に醸成した計画であった。学校教育で果たされぬものあるを思い、その根底に深い仏教信仰があった。先生は仏教婦人会会長でもあり、その会も学校の協力団体であった。
教育方法には裁縫を中心とし、毎朝の黙念、全体修身、掃除、学習の実用本位、生産と握手という項目で説明している。技術だけでなく形態美学や独立自治の精神を養う。かつ裁縫により勤勉正直努力忍耐綿密清潔整頓秩序節約着実温雅などの諸徳を涵養(かんよう)するという教育哲学があった。
惜しむらくはその労苦で昭和8年、65歳で逝去。2代目校長は清野頴氏が継ぐ。昭和20年6月、門下生が資金を集め、謝恩碑が建立された。
教育者。明治元年9月19日鶴岡に生まれ、明倫学校に学び、近所の女子たちに裁縫を教えて生計をたてた。同30年独学で鶴岡高等女学校の裁縫教師、同43年4月鶴岡・日和町の自宅に伊藤裁縫塾を開設した。大正8年に庄内仏教婦人会を結成して会長をつとめ、同13年、塾修了生で組織する如蘭会と、仏教婦人会の出資で若葉町に校舎を新築。鶴岡裁縫塾を設立、翌年私立鶴岡裁縫学校(県立鶴岡家政高の前身)となり校長。昭和8年9月14日死去。