婦人は内助の功などといって表に出ないのを美風とされた明治の世に、状況によっては驚くべき底力を示した荘内婦人の事業がある。中央では鹿鳴館などで洋風のまねをしていたころに、荘内婦人会が創立され、その協力で幼稚園が創立され、今に及ぶという余慶には大いに感謝しなければならない。その中心であったのが白井久井先生である。
白井先生は嘉永2年、荘内藩家老・酒井玄蕃了明の長女として生まれた。戊辰の役の勇将玄蕃了恒、調良の妹、書家・研堂の姉である。19歳にして白井重垂に嫁したが、3年子なきまま夫が亡くなった。しかし、白井家存続のため養子を育てて守り通す、明治の典型的な賢婦烈女と称えられた。
女子が独力で生きていくことの甚だ困難な時代、その職として朝暘学校の教員として迎えられた。更に高等女学校が創立されると、その教師となる。清貞高潔な風格を以て同僚、生徒の敬慕の的であったという。
さて荘内婦人会の創立はそれより先明治21年11月であった。「荘内婦人会日誌」(鶴岡幼稚園蔵)に次のようにある。
「…朝暘第一分校講堂二於イテ第一回荘内婦人会ヲ開ク、集会凡百廿有余名アリ、一、本会ノ目的ハ交際ヲ広クシ弊風ヲ矯正シ婦人ノ位置ヲ高尚ナラシムルニアリ、一、藤生金六君ノ"交際ノ必要"演説アリ、其他本会ノ目的及種々ノ談話等アリ…」
藤生金六とは同年発足した荘内中学校の初代校長に迎えられた人であるが、その夫人貞ともどもこの婦人会創立によって力のあった模様である。
最初の会員は30余名で毎月第4土曜日に集まり、講演や実習を行い、相互の研修に努めた。役員は監事(酒井久井、藤生貞)、書記(伊藤美代野、中山金)、会計3名で運営し、会長は明治35年に白井久井、副に今田政代が正式に就任した。
婦人会の事業に、31年から子守学級を開設、37年より工女夜学会をはじめた。これには「伊藤美代野、伊藤鶴代大イニ尽瘁ナサレタ」とある。多いころは170名に及び修身、礼節、国語、算数、裁縫を教授し、大正12年まで続いた。
やがて最も意義深い幼稚園の設立を明治39年に行う。その首唱は女学校の布施豊世(注)という。幹部達は発奮して町長や郡視学、風間家などの協力を求め説得に奔走し、5月28日開園にこぎつけた。初めは建物を借りて行ったが、43年風間家の大きな支援を受け、独立した校舎となった。幼稚園は特に古いわけではないが、歩みが誠に誠実であり、会員の献身的努力で、こんにちの隆盛の基を築いた。詳しくは同園の30年史や80年のあゆみを参照願うが、こうした事業の中心にあった人望高き白井先生であった。2代会長を今田氏に譲り、大正元年9月逝去した。
注…鶴岡の加藤家の出、幹雄、直士の妹で加藤精三代議士の叔母に当たる。仙台の布施淡と結婚し、布施豊世という。仙台でも幼児教育に功あり。
教育者。嘉永2(1849)年7月4日旧荘内藩家老・酒井了明の長女として生まれた。明治元年に19歳で白井重垂と結婚したが、3年後に死別、朝暘学校開校と同時に裁縫教師に迎えられた。明治21年11月藤生貞らと鶴岡に荘内婦人会を結成して代表幹事、のちに会長となって婦人運動に活躍した。同30年に鶴岡高等女学校の教員、同39年に荘内婦人会立鶴岡幼稚園の設立に尽力した。64歳で死去。