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郷土の先人・先覚68・光丘翁の再来。庄内米の声価高める

本間光美(天保7-大正2年)

本間光美氏の写真

酒田で最初に牛乳を飲んだのは本間光美と思われる。というのは明治元年4月、本間耕曹の働きでドイツ人アカハネ・スネルから庄内藩のため銃器弾薬を購入した際、たまたま光美は風邪でふせっていて、スネルが見舞品として牛乳を飲ませたという話が伝わっている。そのせいか光美は写真で見る限りどうも西洋人くさいのである。

光美は文久3年に6代当主となり、明治8年、40歳の若さで隠居し、大正2年78歳で没している。ですから彼は明治維新という激動期に生き、時代の荒波をもろにかぶった。しかも戊辰戦争では庄内藩が孤立無援の戦いを強いられ、その戦費をほとんど本間家がまかなった。さらに戦後は、70万両という莫大な賠償金を政府から要求され、その責任者として政府の大蔵担当・大隈重信とわたりあったのだからその苦労たるや大変なものがあった。

しかし、“家貧しくして孝子出ず、国乱れて英傑を生む”といわれるようにこの危急存亡のときに、彼のような人物が出たことは藩にとっても本間家にとっても幸いであった。

光美はまず、戊辰戦争に際し、10万両を提供し、戦後の賠償金には自ら5万両を献じたほか、政府との折衝や金策に最大の努力をしている。

大隈との交渉の際、政府に5万両を献納しているが、5万両以上を献じたのは天下の豪商、数ある中でも5人しかおらず、本間家の富の大きさを示している。この時、大隈から政府の御用商人になるよう強く求められたが、「私はいなかの商人ですから」と固辞した。これはせっかくのチャンスに風雲に乗じて本間家を、日本の本間家に大成させなかったともいわれるが、政治に関係しないとか、十全を望まず、己の分を守る、という家憲に従ったものである。

いま本間家玄関にある臥竜(がりょう)の松は、同家のこの精神を象徴しているのである。また、勝海舟が維新後、豪商で健在なのは出羽の本間だけだと、ほめているのも実は光美を賞したものであろう。

おしんブーム以来、酒田観光の目玉となっている山居倉庫も、明治26年、光美が作ったものであり、火災の類焼を考えて、山居島に盛土をして、その上に倉庫をたてた。案の定、翌年、庄内大震災に見舞われ、酒田商業高校のところにあった旧藩時代の「いろは蔵」は類焼したが、山居倉庫は火をまぬがれた。

これだけでも彼がいかに慧眼だったかを物語る。乾田馬耕を導入し、本間農場を作って庄内米の声価を高めたのも彼の功績である。

(筆者・田村寛三 氏/1988年8月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

本間 光美(ほんま・こうび)

酒田本間家5代光暉の二男。文久3(1863)年家督を継ぎ6代目となる。庄内藩に軍用金など多額に献金。廃藩置県後は酒田県権大属、司農方生産掛、勧農掛など歴任。明治8年に40歳で隠居し、家督を長子・光輝に譲った。同21年5月家業の貸金部門を分離して本立銀行を設立、頭取に就任。かたわら所有農地の乾田馬耕など近代化に努め、本間農場をつくった。このときの保有田地3000ヘクタール余。水稲優良品種の導入、耕地整理の推進に貢献、小作人との融和にも努力した。大正2年78歳で死去した。

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