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郷土の先人・先覚69・指物師・近代木工界「三斎の1人」

鉄砲屋亀斎(文久3-昭和2年)

鉄砲屋亀斎氏の写真

名人指物師といわれた鈴木浅吉こと鉄砲屋亀斎は、文久3(1863)年に鈴木与三郎の二男として、酒田の通称・海晏寺坂通りといわれた十王堂町(現・二番町)に生まれている。鉄砲屋は屋号、亀斎は雅号である。

やがて成人した鉄砲屋は生家の隣に居を構え、指物業を営んでいたが、いつごろから定かでないが、神経痛を患い、足腰の不自由な身となった。だが、このころから指物師としての天分の才を発揮しはじめたといわれている。特に小型の箱ものの製作にかけては、並ぶものがないといわれた。年代はわずかに違うが、これも名人といわれた斎藤兼吉がおり、箱ものは鉄砲屋、棚ものは兼吉といわれ、当時酒田指物界の双璧であったといわれている。

鉄砲屋の代表的な作品ではなんといっても「十種木の硯箱」をあげなければならない。そこで伊藤珍太郎氏著の『酒田の名工名匠』の一説を要約、引用させていただいた。十種木とは槐(えんじゅ)、一位(いちい)、楢、栗、薩摩杉(さつますぎ)、橡(とち)、またしおじ、漆、黒柿、欅のことで、これを1分(3.3mm)板に仕上げ金釘や木釘を一切使わないホゾ組で、鉄砲屋の特徴である「最も簡素にして優雅」の趣を保っていると書いている。

「十種木の硯箱」の注文主は、当時本間家につぐ富豪で上通りに住んでいた伊藤家7代目の伊藤四郎右衛門で、養老庵萬寿(ようろうあんまんじゅ)の名で、能や俳句に精通した文化人で知られた人である。萬寿翁は鉄砲屋の技量を高く評価し、その腕を発揮できるように面倒をみたそうである。参考までだが、この硯箱は俳諧の席で筆を使うときのもので、鉄砲屋44歳のころの作品であるという。

前述したが、鉄砲屋は不自由な体から作品は単座で仕事のできるものだけで、小タンス、小机、針箱、飾り台、糸巻などであったようだが、家具の実用性に密着した中に美しさがあったという。

現存する作品に「小引出し」と「小銭入れ」がある。これは相生町の真島清雄氏の蔵であるが、作られてから70年余年間も経たことだろうに、奥深い安定感がいかにも美しいと、所蔵者が語っていたことを覚えている。

ほかに、鉄砲屋の作といわれる「錦旗の駒」と称する将棋駒がある。材料は鳥海山麓に自生する堅く艶のある黄楊(つげ)を用いたといわれる。

伝えられるところによると、往時、近代木工界の三斎といわれ、その技術を評価されたという。だがあとの2人は誰であるかはわからない。

鉄砲屋が腕を惜しまれながら、亡くなったのが昭和2(1927)年11月で、数え年65歳であった。酒田市内の林昌寺に葬られている。

(筆者・荘司芳雄 氏/1988年8月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

鉄砲屋 亀斎(てっぽうや・きさい)

指物師。本名・鈴木浅吉。若いころから器用で指物を習得。あとで神経痛を患って足腰が不自由になり、通りに面したところで座位のまま作業に専念していた。作品は小タンス、小机、針箱、硯箱、飾り台など小物類が主で絶品、珍重されていた。亀斎の技術はのちに国立博物館から近代木工界「三斎」として、高く評価された。文久3(1863)年に生まれ、昭和2年に65歳で死去した。

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