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郷土の先人・先覚76・聖書学者。軍部の弾圧にも屈せず

黒崎幸吉(明治19-昭和45年)

黒崎幸吉氏の写真

黒崎幸吉先生は、明治19(1886)年、黒崎与八郎(研堂)の長男として鶴岡に生まれ、荘内中学を卒業、旧制一高、東大(法科大学政治経済学科)を経て、住友本社に入社。住友に10年間勤めた後、大正10(1921)年に住友を退職し、35歳の時、内村鑑三の共労者となり、以後聖書研究として、また伝道者としての生涯を歩む。

この間に大正11年から同14年までの約3カ年、ドイツ・フランス・イギリスに留学。帰国後故郷へ帰り、聖書研究、執筆、伝道に従事したが、胸部疾患にかかり、転地療養のため、昭和5(1930)年11月兵庫県(現・芦屋市)に転居した。

したがって故郷・鶴岡に在住したのは5年余にすぎず、先生のお仕事が鶴岡、庄内の人々に知られなかったにちがいない。と同時に我が国は暗い時代に突入し、キリスト教自体敵視され、昭和12(1937)年12月には先生の「永遠の生命」誌は発禁処分をうけるなど、軍部の弾圧をうけ、先生の活動は大きな制約のもと、沈黙を余儀なくされていたのである。

先生が自由に、また先生の本領を発揮するのは、昭和20年の敗戦後、59歳以降であった。伝道、講演に、執筆に東奔西走することになった。そして昭和35年8月、先生74歳の時、世界伝道の旅に出て、アメリカ大陸、ヨーロッパ諸国を経て5カ月間の伝道を終え、翌年の1月帰国した。昭和45年6月6日、84歳にて天に召されたのである。

先生の著作は多く、到底ここに書くことはできない。ただ、一言で言えば、先生の著作は「聖書研究」に尽きるといえるだろう。

筆者は、聖書研究家でもなく、また先生にお会いしたこともない。ただ、先生の著書を通じて、先生を尊敬し、人生の師と考える1人である。先生は「恩恵の回顧」の中で、「私は日常生活においても学校生活においてもそう心配をかけたことはないつもりであるが、この父を非常に苦境に立たせたことは3度あった。第一は私が一高、大学のコースに入ろうとした時、第二は私がキリストを信ずる信仰に入った時、第三は私が住友を辞して伝道に飛び込んだ時であった」と述懐しておられる。

一高時代、新渡戸・内村先生のもとで、またすぐれた学友とともにキリストを信じ、そして、惜しまれて住友を去り、わが信ずる道を歩いた先生、軍部の弾圧にも屈しなかった先生、内村先生の最高の後継者となり、我が国キリスト教徒に新たなすがすがしい風を送り続けた先生、その誠実さと学識、そして勇気にただ頭が下がるのである。そうした黒崎先生を鶴岡は生んでいるのである。

(筆者・結城清吾 氏/1988年9月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

黒崎 幸吉 (くろさき・こうきち)

宗教家。書家・黒崎研堂の長男。荘内中学、旧制一高、東京帝大法科大学政治経済学科に進み、内村鑑三の感化を受けて無教会派キリスト教徒に。明治44年住友本社に入社、大正4年に渡米留学。同10年に退職し、ドイツ、スイス、イギリスを歴訪、昭和5年鶴岡に聖書研究会を主宰。太平洋戦争は著者が反戦思想によるものとして発禁処分を受け、戦後日本の再建は教育にあるとして著作に専念した。75歳のとき伝道のため世界を一周し、日本における聖書学者として有名。「註解新約聖書」など著書多数。享年84歳。

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