文字サイズ変更



  • プリント用表示
  • 通常画面表示

郷土の先人・先覚79 酒田築港の大恩人

野村 年(明治6-大正12年)

野村年氏の写真

江戸時代、酒田が北方の良港として賑わったことは今に知られているが、明治維新をむかえ、文明開化が進むにつれて、船舶の機械化、大型化や、なかでも鉄道開通による交通革命により、酒田港は次第に振るわなくなった。酒田人は酒田港の近代化こそ、酒田再生の唯一の途であるとして政府に最上川改修と酒田築港を働きかけた。そのかいがあって大正6年9月、内務省は酒田に最上川改修土地収用事務所を置き、翌7年1月最上川改修事務所を併設し、主任技師に野村年を任命した。

野村年は明治6年、旧尾張藩の学者の家に生まれ、一高を経て京都帝国大学理工科に入学し、近代工学を習得したエリートである。卒業と同時に内務省に入り土木技師となった。野村が酒田に来たことは、いわば酒田築港に近代工学の光が当てられたことであり、酒田の官民は彼の力量に大いに期待した。

同年2月には東京大学理工科卒の坂田昌亮を技師として迎え、野村は最上川改修と酒田築港に全力を傾倒した。彼の計画に基づき翌8年8月から内務省では酒田築港と最上川改修10カ年工事を始めた。そしてこの工事は予定通り10年後の昭和4年に完成し、酒田港は近代港湾として生まれ変わり、6月には第二種重要港湾に指定された。

当時の酒田人の喜びは想像を超えるものがあり、これを祝って最上川で盛大な花火大会を開き、その後、毎年“川開き”と称して花火大会が開催されるようになった。戦後は24年から港まつりとして復興し、今に至っている。

野村年はまさに酒田築港の大恩人であるが、悲しいことに彼は、その成果をみることなく大正12年6月5日、河川改修および築港視察のため洋行中、イタリアのポンペイで51歳の若さで客死した。前年の6月満1カ年の予定で視察旅行を命ぜられ、まもなく帰ろうとする矢先のできごとであり、彼が欧州で見聞きした最新技術を、酒田築港で生かされるのを首を長くして待っていた、酒田官民の驚きと失望は、暗夜に灯火を失ったようであった。

後年、『野村年先生遺稿』を出版した光丘文庫長白崎良弥は、その“叙”の中で「古来、難工事にさいして人柱なるものを立ててその達成を期したというが、先生は実に酒田築港のために巨大な人柱となった」としている。6月11日、酒田妙法寺で官民あげての盛大な告別式が挙行され、雨の中を800余人が参会し、彼を惜しんだ。野村は酒田築港の大恩人であり、忘れてはならない人物であるといえよう。

(筆者・田村寛三 氏/1988年9月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

野村 年 (のむら・とし)

明治6年1月14日名古屋に生まれる。京都帝大工科大学を卒業、明治34年内務省の土木監督署技師に。大正7年最上川改修事務所の主任として酒田に着任。最上川改修と酒田築港などの重要工事を推進し、功績を残した。しかし、欧米各国の河川改修、築港工事等状況を視察中の大正12年6月5日、イタリアのポンペイで自動車事故で死去した。51歳だった。

トップページへ前のページへもどる
ページの先頭へ

Loading news. please wait...

株式会社 荘内日報社   本社:〒997-0035 山形県鶴岡市馬場町8-29  (私書箱専用〒997-8691) TEL 0235-22-1480
System construction by S-Field