数年前のこと「大正義民伝」という自筆本なのか、それとも写本なのかわからないが、とにかく筆で書かれたものが見つかった。表紙には紋付羽織袴の壮士が演説をしている絵が描かれている。読んでみると、大正2年、耕地整理後の小作料増徴に端を発した義挙団の指導者・渡部平治郎のことが、少し誇大に記されているが、なかなかおもしろく、また争議記録としても貴重と感じた。
一体、誰がこれを書いたものであろう、と不思議に思っていたら、あとで本人が書いたものであることが分かり苦笑したことを覚えている。
本人が、自分の一代記をこれほど美化して書けるものかと感服もしたが、いささかこの人はドン・キホーテ的な人ではないかとも思ったりした。例えば、新聞で平治郎の義侠心を知って感激した19歳の雪子という女性が、「会津オチヘブシ」の替え歌を作ったと、次のような歌をのせているが、これなども本人の偽作と思われる。
表紙のあとには8枚の絵があるが、満願寺の総会の場面には、竹槍や鎌の外に大砲がすえつけられており、筵旗には「不正征論」「貧民救助」「渡口米(小作米)引下願及び格下願の件」「義挙農事会」と書かれている。これをみると江戸時代の天狗騒動から明治初期のワッパ騒動に至る農民一揆の系譜をそのまま受け継いでおり、マルクスとか社会主義という思想には無縁な、まったく平治郎の一片の義侠心から出た行動であることがわかる。
耕地整理により、小作民は増歩地がなくなり、以前より小作料を多く取られ、1町歩を小作する農民は年間3石3升の損米を生ずる結果となり、飽海郡10万の小作民は、借金が山の如く、そのため自殺や娘の身売り等、塗炭の苦しみにおちいった。この惨状をみるにみかねて、平治郎が義挙団を組織し、自ら団長となり、小作料引き下げを地主に要求して交渉すること百二十数回に及び、大正6年春までにはほとんど解決したことはあっぱれといえる。この義挙団は山形県下における小作争議のさきがけであり、平治郎の名はますます光を放つと思われる。
小作争議の指導者。漆曽根村(現・酒田市)の地主兼自作農。大正2~3年の凶作と、耕地整理後に小作料値上がりしたのを機に地主に減免運動を起こした。北平田、南平田、一条、上田、中平田、東平田6カ村の小作人ら1000人に呼びかけ飽海義挙団を組織し、団長となる。小作人の地位向上、小作料の引き下げを要求し、むしろ旗をかかげ、知事に直訴状を要求するなど県内の小作争議のさきがけといわれた。晩年出家して自宅に大善寺を開き、88歳で死去した。