先生は浅草生まれというが、そうした下町育ちというより温厚端正、柔和と謹直を兼ね備えた、全く非の打ちどころのない教育者に見えた。
どういう動機、機縁で私の生まれる2年前の明治40年という、日本の片田舎に最初の任地会津から赴任して来られたのか。
特に芸術文化に関心も、普及もしていない土地で、次々と教え子を東京の美術学校、即ち自分の母校に送る。
私が絵かきになろうとしたのは昭和2年、それより早いこと10年も前。私のときでさえ、絵かきになるなんて、それはまことにキテレツなこと。私が絵かきになると言い出した時、図画の先生は、うんとも、すんともいわなかったが、時の校長先生からは校長室に呼ばれて、こんこんと諭された。そういう時代の10年前、よくもまあ、後日交誼をいただいた北海道出身の山口蓬春先生いわく、荘内勢といって在校生皆が一目を置いていたという。
根上富治、星川清雄、山口将吉郎、太田義一、佐藤長草、荒井篁一郎、真嶋北光、五十嵐悌治、それに師範部には大八木栄治、酒井直次郎、川村智保、安倍栄作。
そして加えて在校時代の成績は皆々抜群であった。
私が物心ついたことは、ちょうど鶴中から鶴工に転校されて、大勢は日本画から洋画に徐々に移り変わっている時代であったので、先生のご威光はもっぱら図画教育展での場であった。
今は時代が変わってすべてが組織化され、系統だっていろいろの行事が行われる時代であるが、あの当時はすべてが文明開化の時代で、個人の意思、力、情熱がすべてのものを生み、育ててゆく時代であった。
そうした時代に先生が荘内に赴任されたということは後で振り返って考えてみると、大変な運命であり、恩人であり、革命児といっても過言ではない。
しかし、先生のそうしたたゆまない情熱、開拓精神に対して、この土地は果たして先生の遺徳に対して十分にこたえたであろうか。結果は根なし草に終わっている。
ローマは一日にして成らずといえば、それまでであるが、それにしても率先して進学し、絵を学び、芸術の開花大成に精進したはずのそれらの先輩が、多くは花を開かず、結果として実も実らせず、ましてや後継の作家を芽生えさせることもなくしぼんでしまった。
なぜか。
保守的で先輩は後輩を引っ張る風習も薄く、どちらかといえばバラバラなこの地の風土のなせるものではなかったか。東京のど真ん中で生まれ育った先生も、晩年そのわびしさを1人黙然と抱いてこの地で黄泉の旅に立たれたのではなかったか。
教育者。明治12年6月30日、東京の浅草に生まれる。同30年に東京美術学校日本画科に入学、35年に卒業して研究生に。在学中から日本画改革のため新派活動を起こした。同40年秋に会津中学校から荘内中学校の美術教師に着任。鶴岡工業学校が開校した大正9年に請われて同校へ転任、昭和14年まで勤めた。その間、中央画壇の作品を精力的に紹介し、生徒の作品も展示して美術意識を高め、数多くの生徒を東京美術学校に進学させた。児童絵画教育の普及に絵画展を定着させ、自費で小貫芸術賞を創設した。80歳で死去した。