加藤長三郎の逝去は、大正15年3月26日で、享年71歳である。今にしてみれば老齢時期の初期の年齢であるのだが、幼い私にはずいぶん年を経た老人に見えた。若者のように色つやがよく、背筋をピンと張っていても長く伸ばした上品な髭のゆえだったかもしれない。
長三郎は私の父の叔父に当たる。当時、長三郎家は「加茂長様」といわれ、大山の加藤一族のうちでも清酒・加茂川の醸造商にしろ、資産にしろ筆頭とみなされていた。83歳で天寿を全うしたが父が最も尊敬しつづけていた叔父であった。
近年出版された「庄内人名辞典」に記載されている長三郎の業績は、『大山村長、初代大山町長、大正15年まで三度町長を歴任。地域水利組合の事業の推進、明治28年より県会議員に推されること数度、自己の経済力を背景に鶴岡銀行、鶴岡米穀取引所、鶴岡水力電気、北洋漁業の役員に名を連ねる…』、といった事はさることながら事業嫌いで、政治嫌いだった父は、叔父長三郎の温和な人柄と、書画骨董への素晴らしい鑑識眼に惹かれていたらしい。
私たち家族は長三郎を「大山のじーさま」と呼んでいた。後年親戚のある方に聞いた話であるが、「信右エ門はん(父)は書画でも、骨董でも求めると必ず長三郎さんに見てもらう。誉められると骨董好きな客によく見せるものだった」という。その中で父が自慢で得意だったのは白磁の香炉だった。たぶんいわゆる長三郎こと「大山のじーさま」に誉められ、讃えられたものだったろう。典型的な没落地主の売り食い時代、父の求めた書画骨董をきれいさっぱり手放させてもらったが、今でも口惜しく思うのはあの白磁の香炉である。
長三郎の逝去は私の11か12歳のころであった。私の長い人生で人間の遺体に最初に接したのは、長三郎の遺体だった。長三郎から子供心に受けた強烈な印象は、今でも具体的に残っている。写真を目を閉じらせ、白い死装束を着せれば、そのまま長三郎の遺体が浮かびあがってくる。安らかだったし荘厳だった。
それは長三郎は市井の民衆から、多少頭角をあらわした1人にすぎなかったとしても、人間として、やる事をやりとげて、死ぬ権利を甘受したような安らかさだった。
その傍らに可愛い、坊やが座っていた。加藤長三郎家の当主の寛二君である。彼がかつて日光東照宮の設計を担当した際、「祖父・長三郎が幼い私にしてくれた、書画骨董の鑑賞の講釈が、どのくらい役に立っていたかわからない」としみじみ話していた事を記憶している。
長三郎の葬儀は盛大な大山町の町葬だった。延々と続く葬列は、町役場前で永遠の別れを告げ、菩提寺専念寺に向かうのであった。葬儀が長時間にわたって幾本もの家紋燭(かもんしょく)が割れ、流れ出して大人たちがあわてたのを知っている。
長三郎の業績は、形を変えて今だに地域社会の個々各所に残っていると思う。
地方自治功労者。安政3(1856)年鶴岡に生まれ、大山の清酒加茂川醸造元加藤長三郎の跡を継ぐ。大山ほか32カ村の酒造組合大行司を歴任し、市町村制が施行された明治22年から大山村長、翌年初代大山町長に選ばれた。大正15年まで同町長3回。その間、明治28年から県会議員に数回推され、湯野浜隧道開さくに貢献。鶴岡銀行、大山精米、鶴岡米穀取引所、鶴岡水力電気などの役員も務め、学校建築、貧民救済に多額の寄付をした。71歳で死去。