昔、酒田は港を中心とする酒田町組と、内町、米屋町組に二分されていた。現在でもその傾向があり、一方を"下通り"、片方を"上通り"と呼んでいる。それは日枝神社の氏子としても下通りは下組、上通りは上組としてそれぞれ上(かみ)、下(しも)の神社に分かれていたので、その違いをことさらに鮮明にしてきた。
たとえば山王祭りでも上、下で"神宿"や"山車"の優劣を競い、華美を争った。そして下通りの代表が本間家であるのに対し、上通りは大正寺町にすまいしていた伊藤家だった。文化面でも、下通り文化に対して、上通り文化と呼ばれるものを伊藤家を中心に形成してきた。
今の本間家が元禄2年の創業に対し、伊藤家初代もこの頃、大山から酒田にきて、米屋町で油屋を営んだ。先祖が行商したときの天びん棒と油入れは、同家の土蔵に大切にしまわれていた。
安永元年には藩に1000両を献じて20人扶持を賜っている。寛政10(1798)年、藩では伊藤家と本間新四郎に金5000両を預け、商人の恐慌を救っている。文政12年には大坂回米雇船検分掛り、大庄屋格となっている。文政10年4代四郎右衛門等和は、鶴ケ岡城内で能楽を演じているが、一行60名という豪勢さだった。この等和は花笠(かりつ)といって俳句でも宗匠格だった。
さて、四郎右衛門は嘉永6(1853)年の生まれで、幼名を得四郎といった。同家は士族でもあったので維新後、彼は松ケ岡の開墾や北海道開拓に参加した。明治24年に酒田に帰り、7代目を継いで当主となった。
堂々たる肥満体に、立派なあごひげをはやし、ヒゲのだんなとして尊敬された。力も強かったとみえて相撲が好きで、東京相撲一行が酒田に来ると、自宅に力士を招待し、連成の土俵で若い力士相手に相撲をとり、勝つと上機嫌だった。相馬屋から料理をとり大盤振舞をした。お壷の中には1枚ずつ小判が入っていたとかいわれている。
同31年には春秋庵幹雄について俳諧を習い、間もなく宗匠となり、養老庵萬寿と号し、古池分院を酒田に設け、北辰社と称し自ら会長となった。80人位の会員がおったが、中には出入りの職人もおり、彼らは句作に苦労をした。能楽界で活躍している伊藤欣四郎は彼の子供である。将棋は時の名人・関根金次郎につき3段になる。俳句、能、将棋と、酒田の文化を代表する3部門で彼は大きな貢献をした。小山革新市政時代、3期にわたって助役を務め、名声を高めた珍太郎は彼の孫に当たる。
嘉永6(1853)年5月9日生まれ。酒田・浜町の大地主・伊藤四郎右衛門の二男。鶴岡の別宅で育ち、松ケ岡開墾に本多組へついて従事、あとの北海道開拓にも参加した。明治24年に酒田へ帰って家督を継ぎ、春秋庵幹雄について俳諧を学び、東北の宗匠となる。関根金次郎に将棋を習い、宝生流謡曲を三川寿水と松本長に師事し、また多くの門人を指導。大正3年4月10日、62歳で死去。幼名・得四郎、号を養老庵萬寿。