文字サイズ変更



  • プリント用表示
  • 通常画面表示

郷土の先人・先覚86 奇骨の教育者

荻原重逸(明治11-昭和32年)

荻原重逸氏の写真

昭和20年代の後半から31年ごろまで、酒田市の選挙管理委員長を務めた荻原重逸は、選挙事務に従事する市職員を前に、黒いガウンをきて登壇し、「投票は重大な国民の権利であります。これを職員のミスのため、選挙ができなくなることがないよう、くれぐれも注意願います」と、選挙が始まると、判で押したように訓話するものだった。

今になって荻原の書いたものを読むと、漢学の造詣が深かった彼は、孔子の説く“大同の世界”を、平和の理想世界として情熱を持って述べており、選挙の話は、いわば彼の哲学や信念からほとばしり出たものであって、決して通り一遍の挨拶でなかったことがわかる。

彼は明治11年、荻原重緒の子として、鶴岡の家中新町に生まれ、荘内中学を経て旧制一高に入学したが、病気のために中退した。その後、酒田の教育者五十嵐三作を尊敬して小学校教員となり、長らく琢成小学校の教頭を務めてから各小学校の校長を歴任し、広く人望を集めて教育界の重鎮と評された。

漢学・英語・哲学・宗教に深い学殖を持つ彼は、独特の教育哲学を有するに至り、それにもとづいて子供を教育した。例えば、教え子の1人で日本最高の漆工芸家である本間舜華氏は、荻原の遺著『はすの華』を装幀をし、序文を書いているが、その中で「先生は教科書にのっていることは読めば分かる。私はそれに書いていないことを君達に教えるといって、医学・郷土史・倫理・手工・読書等を教えられ、非常にためになった」と記している。

彼は在の校長をしていたころ、時間を惜しみ、登校の道すがら握り飯をほおばった。雨の日には“みの”で身を固めて通ったので、いつしか"むぎわらトンボ"をもじり"おぎわらトンボ"と渾名(あだな)された。村長に学校の修繕費用を要求しても通らないと、それでは生徒が風邪をひいてもよいのか、とさかねじをくわせたり、学校教区にあれこれと口出しして、うるさい和尚に「私は教区者で、あなたは宗教家である。ですから私は教育勅語をそらでさかさまからも読める」といって、実際にそらんじてみせ「さあ今度はあなたが般若心経を逆から読む番だ」と迫り、さすがの和尚をへこました等という逸話が数多く伝えられている。

晩年は本町にすむ漢方医の池田貞三と親しくなり、本草学や漢方医学を研究し、頼まれれば友人知人の治療をも指導したようである。戦時中、教え子が出征するときには必ず記念として書を書いてあげた。漢詩・短歌・書をよくした。

(筆者・田村寛三 氏/1988年10月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

荻原 重逸 (おぎわら・じゅういつ)

明治11年3月20日、鶴岡に生まれ、荘内中学から旧制一高へ。中退して帰郷し、小学校教員になった。酒田・琢成小学校の教頭を歴任し、各学校の校長。特に初動、英語を得意とした。また、本草学にも詳しく、さらに郷土史を調査・研究し、酒田市史編纂委員になった。晩年は同市選挙管理委員長も務め、昭和32年6月2日、79歳で酒田で死去した。

トップページへ前のページへもどる
ページの先頭へ

Loading news. please wait...

株式会社 荘内日報社   本社:〒997-0035 山形県鶴岡市馬場町8-29  (私書箱専用〒997-8691) TEL 0235-22-1480
System construction by S-Field